木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 もちろん彼女は、ザ・アールを通して吉本に派遣されていたのですから、そこは筋を通さないといけません。さっそく大阪支社長の中上支社長にお話をして、契約期間の終わる10月末をもってザ・アールとの契約を終了をするということで、ご了解をいただくことになりました。とは言え、その間にも、新たな事務所を立ち上げ、備品の調達や、挨拶状の送付、名刺の印刷などなど、しなければならないことは山ほどありました。

 しかも、既にお受けしていた講演会や、ベンチャー・コミュニティのアドバイザー会議、頼まれて無償で代表幹事代行を引き受けていた京都経済人クラブの例会などもあって、私自身が十分に時間を割けない状況の中、何とかスタートを切ることが出来たのは、彼女の存在があったこそだったと思います。

 事務所は松川君の推薦もあり、御堂筋と長堀通りが交差する心斎橋西ビルに決めました。やはり、後に働くようになった千日前よりも、最初に吉本で働いた心斎橋の方に思い入れがあったということかも知れません。大阪に拘ったのも、地盤沈下が囁かれ、覇気が無くなったように見えた、大阪の威勢を取り戻す何かをしてみたかったのだと思います。このビルのオーナーの森浦さんが9階で写真スタジオを経営されていて、娘さんが地階で「イーバン・ミルソン・オンズ」という覚えにくい名前の、洒落たワインバーを営んでおられる、こじんまりとしたビルでした。もしかしたら、酒豪でもある松川君がこのビルを薦めたのは、このバーがあったからかもしれませんね。

 さて、次は社名を何にするのかということです。木村企画とか、木村エージェンシーにはしたくなかったので、「木村政雄の事務所」ということにしました。それまで電話を掛ける時は、「吉本興業の木村ですが」と言えば取り次いでもらえたのですが、辞職した以上、もうそれを使うことは出来ません。「木村と申しますが」と掛けても、必ず「どちらの木村さんですか?」と聞かれるのです。といって「心斎橋の」と言うわけにもいかず、悩んだ挙句、「木村政雄の事務所の木村政雄です」と言えば、2回自分の名前が言えると思い、この名前にすることにしたのです。ただ、「これって、普通すぎて、あんまり面白くないな?」という思いもあったのは確かです。そんなある日、大阪の実家から京阪楠葉駅まで向かってバスに乗っていると、窓越しに「R」が鏡文字になっている「TOYSЯUS」の看板が目に入ったのです。(元々はToys are us = おもちゃはぼくたちのという言葉で、これをくっつけた時に、遊び心を入れてRを鏡文字にしたといわれます)これだ!と思いましたね。さっそくそれを真似て、「の」を鏡文字にし、松川君のアイデアで、強調するために、明治から大正にかけて新橋の芸者衆の間でハイカラな色として流行した「新橋色」というブルーにして、「木村政雄事務所」とすることに決めたのです。もっとも登記上は、そういうわけにもいかず、普通の「の」にしましたが、それ以外はすべて、この鏡文字で通すことにしました。おかげで、封筒や名刺の印刷代は少し高めにつきましたが、どこかで遊び心のようなものを、社名にも取り入れてみたかったのです。

 この間、彼女は吉本興業で日常業務をこなしながら、ランチタイムにオフィスを探し、終業後に事務所掃除、挨拶状の作成と総てをこなしてくれたのですから、まさに同志と言っていいと思います。その意を込めて名刺にもパートナーと記すことにしました。唯一の弱点だった東京の土地勘がなかったことも、私が海外旅行に出ていた際に、深夜バスに乗って東京へ出て、私がよく行っていた東京駅、新橋、赤坂界隈を徒歩で回って、どれくらい時間がかかるのかをリサーチしてくれたといいます。まさに完璧な相棒という存在になってくれたのです。

 新事務所への引っ越しが完了したのは、辞職をして2週間後の10月23日のことでした。

事務所を構えた「心斎橋西ビル」

9階がオフィスになりました

ワイン・バー「イーバン・ミルソン・オンズ」

 

 

 

 

 

心斎橋西ビルの大家さんの犬で、エサをやるときにしか来ないミニチュアシュナウザー