木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 大阪・摂津市一津屋にある、横山やすしさん宅を訪ねたのは、7月4日のことでした。思えば、やすしさんの仮通夜が行われた日以来のことですから、およそ12年ぶりのことになります。この日訪れたのは、奥さんの木村啓子さんの霊前にお参りをするためでした。6月23日の夕刻に心筋梗塞で亡くなられた事は、新聞社から知らせを受けて知ってはいたのですが、寝屋川玉泉院で執り行われた通夜や葬儀に参列することが出来ず、この日になって一人で訪ねたというわけです。応対をしていただいたのは、喪主を務めた長女の光さんでした。彼女の話では、啓子さんは自宅で来客の応対をしている最中に倒れ、救急車で病院に向かう際には既に心肺が停止して状態だったとか。この年の1月15日から、NGKでやすしさんの13回忌追悼ウィーク興行を終え、2月に光さんが、娘のさゆみさんとコンビを組む宮川大助・花子さん一家と共に沖縄旅行に出かけ、9月には人間ドックに入られる予定だったのですが、それを待つこともなく旅立たれてしまったのです。

 思えば、気の短いやすしさんとは対照的に、おっとりとした方で、前に出ることもなく、一歩引いたところで夫を支え、この奥さんがおられたからこそ、やすしさんがあったと言ってもいいくらい賢い方でした。相棒の西川きよしさんの奥さん・ヘレンさんも賢夫人として知られた方でしたが、啓子さんもまた、ヘレンさんとは違った形の賢夫人と言っていい方だったと思います。1996年1月にやすしさんが亡くなった後は、介護福祉士の資格を取得され、光さんはエステティシャンの資格を取り、自宅でサロンを開業されていた最中でした。ひとしきり思い出話などをさせていただいてご自宅を出たのですが、私には、生来の淋しがり屋のやすしさんが、13回忌という節目を終えて「何しとんねん、早く来い!」と啓子さんを呼ばれた気がしてなりませんでした。

 淋しがりやだったと言えば、私は参加していないのですが、やすしさんが自宅に放送局のスタッフや作家さんなどを呼んで、鍋料理に舌鼓を打っていた際に、日付が変わろうかという頃に、メンバーの誰かが、ふと腕時計に目を遣ったのを見咎めて、「お前、今時計を見たな、ワシより時間の方が気になるんか。こんなもんがあるから時間を気にするんじゃ!」と言って、腕時計を煮えたぎる鍋に放り込んだ、有名な「恐怖の時計鍋事件」というのもありましたね。おかげで普段よりいい出汁が出たというオチまで付いていましたが、それは後で付けた話だと思います。

 またやすしさんは、時として、「わしは、全国の競艇場に愛人がいる、港々に女ありや!」とうそぶいていましたが、その実、私が見かけたのは2・3人くらいのもので、しかも、やすしさんとあまり年の変わらないような人もおられました。きっと、愛人というより、どこかで母性なるものを求めていたのかもしれません。

 東京での収録を終えて、急いで羽田へ着いたものの、搭乗便は既に締め切り、カウンターのスタッフに向かって、「お前ら、落ちる時は勝手に落ちるくせに、乗せる時はうるさくチェックするんか!」と毒づいていたこともありましたね。もっとも、丁寧に「ただいまから墜落します」と言われても困りますけれどね。光さんと話をするうちに、そんな懐かしいエピソードが蘇り、小一時間ほど滞在したように思います。

 帰り道、光さんに呼んでもらったタクシーで、街灯がなく暗い、摂津の一津屋から鳥飼大橋に差し掛かり、下を流れる淀川を見るうち、やすしさんがこの地に居を構えたのも、ボートに乗るためで、時には仲間を集めてボートレースをしたり、ここから淀川を下って道頓堀の戎橋までボートで向かい、なんば花月へ通っていたと聞いたことがありました。一級河川でどうしてそんなことが許されたのか分かりませんが、やすしさんには何か特別なスキルがあったのでしょうね。

 

 

木村ひかり・宮川さゆみコンビ

 

若きマネージャー時代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恐怖の時計鍋(イメージ)

 

 

 

アメリカ版 港々に女あり