木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 「くいだおれ」で思い出しましたが、大阪には十三(じゅうそう)、放出(はなてん)、抗全(くまた)、靱本町(うつぼほんまち)など、他県の人では読み取ることが出来ない地名が多くあります。現に私が大阪で住んでいた枚方(ひらかた)も、「まいかた」と読む方が多かったように記憶しています。その中の一つに、西区の立売掘(いたちぼり)という所があります。地名の由来は、大阪冬の陣・夏の陣の際に、伊達政宗がこの地に堀を造り、陣を構えたところから当初は伊達堀(だてぼり)と呼ばれていたのですが、しだいに(いたちぼり)と呼ばれるように変化していき、後にこの地で材木の立ち売りが許されるようになってからは、(いたちぼり)はそのままで、漢字だけを立売堀と改めたのだと聞きました。

 私がこの地名を知ったのは、関西テレビが1973年10月に開局15周年を期して始めた、「どてらい男(やつ)」がきっかけだったと思います。福井から出てきて、丁稚修業の後、自ら興した会社の機械産業用機器などを扱う商社の「山善」を、一代で東証・大証1部上場企業にまでに大きくされた、山本孟夫さんをモデルにした立志伝で、週刊アサヒ芸能に連載された花登筺さんの小説を、テレビドラマ化したものでした。山本孟夫さん役の主演・山下孟造(モーやん)役には、歌手の西郷輝彦さんが起用されました。この「山善」という会社が立売堀にあったのです。

 「どてらい男」は当初の予想を上回って、放送枠も火曜の10時から日曜の9時に移り、最高視聴率が38%、通算では181話、1977年3月まで、3年半も長く続く大人気ドラマとなり、歌手の西郷輝彦さんがドラマ俳優として活躍の場を広げる大きなきっかけとなりました。別に、吉本のタレントさんがレギュラー出演をさせていただいているわけではなかったのですが、私が別件で関西テレビへ行った折、当時「どてらい男」の演出をされていた内海佑治さんから、「オープニング映像で、モーヤンを乗せるタクシー運転手さん役で西川きよしさんに出てもらえないか」とオファーされたこともあって、阪堺線の走る堺市でのロケに付き合っただけのことだったのですが、以降もなぜか気になって、結構このドラマを見ていたように思います。関西局もまだこの頃は、外注に頼ることなく自前で全国ネットのドラマを作っていたのです。

 そんなこともあって、立売堀にはなじみがあったのですが、4月22日、その立売堀にある企業から依頼をされた講演会があったのです。場所はホテルニューオータニ。企業名は「サンコーインダストリー株式会社」さん、1946年にネジの専門問屋として創業されたといいますから、私と同じ歳になる会社です。年商200億円、社員270人の会社ですが、商品アイテム数35万は、業界No.1だとお聞きました。すべてのねじに12桁の商品コードを付けて、35万のアイテムからたった1つの商品を見つけて即納できると聞きました。「ネジ屋さんに一体何を話せばいいのか?」、そう悩んでいた私の懸念は会場に入った途端に消えてしまいました。奥山社長始め、社員の皆さんの元気なこと、そして仲のいいこと。お世話をいただいた玉木康子課長は何と御年77歳、まだまだ若くチャーミングな方でした。こんないい会社が大阪にあるなんて、「まだまだ大阪も捨てたものじゃないな」と意を強くしました。後日、所用があって、立売堀通りと四ツ橋筋が交差する辺りを通りがかった際に、大きく「ねじ」と書かれた看板があって、これは「サンコーインダストリー」さんのものだとすぐに分かったのですが、よく見るとその横に、「太洋ねぢ」と書かれた看板がかかっていたのです。たった1文字の違いに自らの存在をかけて、切磋琢磨をしている様がうかがえて、「大阪らしくていいな!」とは思ったのですが、「ねじ」と「ねぢ」の違いって、いったい何なのでしょうね?

 

 

山善の創始者 山本猛夫さん

 

山善の前身となった山善工具製販株式会社

 

 

 

西川きよしさん、西郷輝彦さんに演技をつける内海佑治ディレクター

 

 

 

 

 

 

 

機械工具店が並んでいた問屋街

 

「ねじ」と「ねぢ」の競演

 

中央が玉木康子さん