そうそう、この年の4月29日には、10時半から白金の都ホテルで日本テレビの「ズームイン・スーパー」のVTR取材を受けた後、迎えのタクシーに乗って横浜の大桟橋に向かいました。この頃、年に1度は、横浜佐藤クリニックへ通っていたこともあって、この近辺の風景は多少見慣れたものではあったのですが、この日は免疫注射を打つためではなく、富士通労組さんが単一労組の結成55周年を記念して実施された、海外研修事業の「青春の船」に講師として参加をして、4泊5日で中国の天津へ向かうためだったのです。
富士通さんには、それまでにも何度か講演のご依頼を受けていたこともあり、その縁もあって、今回お声がけをいただいたのだとは思いますが、船内で90分の講演をするために、5日間も拘束されることにやや躊躇したものの、船旅という未知の世界と、船内に4室しかないロイヤルスイートに泊まれるという甘い囁きに負けて、お引き受けすることになったのです。
参加されたメンバーは、本社ばかりではなく、全国にある関連会社の社員やご家族の方々、それに私たち関係者を含めて526名、年齢は1歳から83歳まで、平均年齢は43.7歳だとお伺いしました。諸手続きを終えて、小雨の中、チャーターされた2万6千トンの「ぱしふぃっくびいなす号」に乗り込み、横浜港を離れました。船内では、午後3時から結団式、オリエンテーション、船長主催のウエルカムパーティと、たて続けにスケジュールが組まれていました。私は団長の荒籾一男さんや、副団長の山形進さん、実行委員の方々とお話をさせていただいて、9時頃に部屋へ帰ったのですが、ちょうどこの頃に下田沖に差し掛かり、外洋に出たこともあって、船に多少の揺れが生じた頃、無聊をかこつためにつけたテレビに映ったのが、海難事故を扱った映画「タイタニック」だったのです。縁起でもないと早々に切って、いつもより早く床に就くことにしました。
おかげで、翌30日はいつもより早く6時過ぎには目覚め、船は和歌山・新宮沖、朝食後に開かれた全員参加の避難訓練では、ことのほか真剣に取り組んだ記憶があります。その後8階のメインホールで6月に勇退される荒籾中央執行委員長による記念講演。「一生勉強、一生感動」という内容の感動的なものでした。参加メンバーの方々はそれぞれ10名くらいに分かれて、グループワークなどに取り組んでおられたのですが、私は時間を持て余して、一人デッキに出て外を眺めていると、ちょうど船は明石大橋にさしかかっていました。手を差し伸べれば届くような距離にある橋脚を目にして、つい「ここで降りれば帰れるのになあ」と不埒な思いに駆られたりしていました。
私が講演したのは、その翌日の5月1日、衛星回線を使って電話出演をした文化放送の「やる気マンマン」を終えた後の4時半、ちょうど船が五島列島から、韓国の済州海峡に差し掛かった頃だったと思います。約500人をお相手に話をさせていただいたのですが、務めを終えた解放感もあって、その後開かれた組合の方々との会食の席は、余裕をもって臨むことができたように思います。目的地の天津港に接岸したのは、3日の朝7時頃でした。そのあと入国審査を済ませ、歓迎式典に出た後、5班に分かれて中国内を3泊4日で訪ね、再び船で神戸港・晴海港へ帰られる皆さんと別れ、天津甘栗や天津飯を食べることもなく、一人、車で北京空港へ向かいました。
思えば、スタッフの皆さんや参加された皆さんから、多くの親切と感動をいただきました。その上ギャラまでいただけるのですから、「富士通って、なんていい会社なんだろう」と思いました。2時間程して空港に到着し、午後2時45分発のANA便で成田まで帰ったのですが、空港のイミグレーションの係官が、「朝の9時に入国をして、もう帰るのか、こいつ一体何をしに来たんだ?」と怪訝な顔で私を眺めていたのを憶えています。ツアーの皆さんはこの後、9日に神戸港を経由して東京の晴海ふ頭へ帰られたのですが、私が、西日本地区の方々が降りられる神戸港まで迎えに出向いたことは言うまでもありません。
じつは、この4年後の2010年にもお誘いをいただいて、チャーター船も「ふじ丸」に、団長も山形進さんに代わっていましたが、同じ「青春の船」に再び参加させていただくことになったのです。スイートルームで一人退屈して過ごした鐵を踏まぬようにと、この時、妻を同伴したのはいいのですが、北京へ着いた後、時間のない中、王府井や東方新天地などのショッピング街で引き回しの刑にあい、「こんなことなら、一人でくればよかった」と悔やみましたが後の祭り、「こうかい(航海・後悔)先に立たず」とは、まさにこのことですよね。
「ぱしふぃっくびいなす号」を背に
山形進 団長と
労組幹部とメインスタッフの方々
タイタニック号の沈没シーン
天津での歓迎式典
是為何来中国的?
後悔先に立たず