木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 月曜日コメンテーターの、えなりかずきさんや、木曜日の倉田真由美さんも私同様に1年間で降板されたのですが、やはり私同様、朝3時半起きから解放され、ホッとなさったのではないかと思います。番組の最後に花束をいただいて、スタジオを去ることになったのですが、1年間の最大の思い出といえば、2005年のビオフェルミン事件だったと思います。番組の中で、みのさんが「ビオフェルミンを飲むくらいなら、ビールを飲んだ方がいい」と発言され、私も「みのさんらしいな」と思っていたのですが、なんと、ビオフェルミン製薬がこの番組のスポンサーについておられていたのです。激怒したビオフェルミン製薬さんは、5日後にスポンサーを降りることになったのですが、後日、直接神戸の三宮にあるビオフェルミン製薬へお詫びに出向かれたTBS関西支社の方から、「あの時は参りましたよ」と当時の苦労話をお伺いして、思わず同情したのを憶えています。私自身は、このところ、「ビオフェルミンS錠」を飲むのが日課にはなっていますがね。今一つは、本番中、アナウンサーが話している時に、目を閉じてセットにもたれかけるようにされていることがあったことです。「寝ていた」という説もありますが、私は、そうではなく、きっと、目を閉じて、思案を巡らされていたのだと思っていますけれどね。

 とはいえ、番組は2005年6月には視聴率も10%を超え、2006年10月期には月間10.2%を出して、NTVの「ズームインSUPER」やフジテレビの「めざまし」を抜いてトップに立ったのですから大したものだと思います。残念ながら2008年頃からは陰りが見え、2013年10月にはみのさんも、ご次男の事件もあって降板されることになったのですが、予定調和が前提であった朝のワイドショーに、一石を投じた番組であったことは確かだと思っています。

 この後私はラジオスタジオへ移動して、「ズバリ快答!身の上相談」の収録を済ませた後、「5ℓ」6月号のインタビューのため、赤坂通りを歩いて檜町交差点へと歩を進めました。1980年に東京事務所を開設した頃にいたこともあって、懐かしい思いに浸りながら交差点を右折すると、高輪に転居するまで住んでいた秀和赤坂檜町レジデンスが目に入りました。振り返ってみれば、いくら事務所から至近距離にあったとはいえ、「よくあの狭い2Kのマンションに住んでいたな」という思いに駆られながらリキマンションの方へ歩を進め、少し行くと、この日インタビューをさせていただく矢沢永吉さんの「oden studio 2nd」が見えてきました。スタッフがまだ到着していないため、駐車場で一人待機していると、そこに1台の車がスーッと入ってきたので、ふと目を遣ると、何と矢沢さんご本人が現れたのです、とはいえ、こちらを見る間もなく、一人でスタジオの中へ入っていかれました。この日の撮影をお願いしたカメラマンの荒木経惟(のぶよし)さんらが現れたのは、それからまだ10分ほども経ってから後のことでした。「ロックのメジャー化の先駆者」、「海外レコーディングの先駆者」、「ライブミュージシャンの先駆者」、「著作権ビジネスの先駆者」等々の称号で語られるこのビッグアーティストが、果たして何を語っていただけるのか?大いなる期待と不安を胸に、指定されたスタジオへ入り、登場されるのを待つことにしました。

最後の出演

 

 

 

ビオフェルミン製薬株式会社

 

 

 

みのさん、せっしょ でっせ!

 

一見、眠っているように見える、みのさん

 

 

 

寝て・・・ませんぞ

 

かつて住んでいた、秀和赤坂檜町レジデンス

 

 

 

 

 

 

 

「oden studio 2nd」