こうした日々を送る中でも、芸能に関するコメントを求められる機会もあり、7月1日の毎日新聞の「ワイド インサイド」というページで、当時の芸能界を席捲していたピンク・レディについてコメントをしたり、7月8日の朝日新聞の「三者三論・笑いの時代到来?」というページでは、放送作家の高田文夫さんや、日本テレビ・エグゼクティブディレクターの五味一男さんと共に、自分なりに思う所を話させていただいたりしていました。
とはいえ、この時期、やはり気になっていたのは「5ℓ」のことで、スタッフと協議を重ねて、9月の創刊記念号に続いて、11月から毎月1日に東京・関西圏を中心に、近畿日本ツーリスト、ツーリストサービス、ツーカーホン関西、ダイソー、大阪日本交通、メガネのパリミキさんや、銀座、神楽坂、神田神保町、北新地、法善寺横丁の他、京都や神戸の名店にも置かせていただくことが次第に固まっては行ったのですが、肝心の誌面作りとなると、専門家が誰もおらず、アドバイスを求めたのが新潮社に居られた宮本和英さんでした。
宮本さんは、ファッションを中心に、思春期の女の子のライフスタイルを扱う雑誌「ニコラ」の創刊編集長で、2000年代にはジュニアファッションブームや、ニコモと呼ばれる専属モデルの人気で部数を急増させ、2002年にテレビ東京で「Party Party」を、2004年にテレビ大阪で「ニコモノ」などの番組を立ち上げる一方、2003年からは伊藤忠と共同でファッションブランド「Girl is Girl by nocola」を展開、その功あって、2003年からは新潮社内に新しく設立された「nicola事業部」の部長職に就かれていました。当時、「ニコラ」の表紙を飾った岡本玲や虎南有香などのタレントを、先駆舎がマネジメントをしていた縁で眞邊君とは近しい間柄ということもあって、以降何かと相談に乗っていただくことになりました。結果、編集業務を新潮社OBの宮島正洋さんのアートデイズに委託をして、アートディレクションをグラフィック・デザイナーの川畑直道さんにお願いすることになりました。
創刊記念号の巻頭インタビューには、私より2歳下、ちょうど5ℓ世代ど真ん中の都はるみさんにお願いすることに決め、7月25日に、私が出演していた「やる気マンマン」の放送終了後に、文化放送から用意していただいた応接室で行うことになりました。京都に生まれ、1964年に16歳で「困るのことヨ」でデビュー、続いて出した「アンコは椿恋の花」がミリオンセラーとなり、20年間でレコードとテープを合わせて630億円もの売り上げを達成した絶頂期に、「普通のおばさんになりたい」と、名セリフを残して引退をされて、5年後に再び復帰された心境などを伺いました。個人的には、復帰後第1作となった「小樽運河」が、しみじみと心に沁みる名曲であったような気がして、のちに小樽を訪れた際に、つい口ずさんだような気がしています。
この他に、特集の「挑戦する人々」では、主婦から役員にまでなられた「東横イン」の5ℓ世代の女性や、5ℓ世代の写真家が着る「秋の休日スタイルはブルーシャツが主役」、5ℓ世代の奥寺康彦さんが関わる5ℓ世代のサッカーチーム「横浜スコーピオン」を取り上げた「素晴らしき仲間交歓」。連載では、「赤瀬川原平の世相ななめ読み」、童門冬二・選「5ℓ川柳大賞」、ラジオ深夜便のアンカーを務めた立子山博恒さんの「愉悦のJAZZ私の名鑑」、オールナイトニッポン初期からのディレクター「中川公夫のリレーエッセイ・気分はRONIN」や、TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」とタイアップした「笑うしかない不幸な話」「近藤勝重のマンスリーコラム」など、バラエティに富んだラインナップとなりました。
宮本和英さん
岡本玲さん
虎南有香さん
都はるみさん