木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 この年(2005年)の2月14日でした。以前から「ブロードキャスター」でお世話になっていたTBSの森本典嗣ディレクターからお話があって、低迷気味の平日朝のワイド番組を大改編、2002年からTBSで「サタデーずばッと」の司会をされていた、みのもんたさんを起用して、3月28日から、5時半から8時半の3時間生ワイド番組「みのもんたの朝ズバッ!」を立ち上げるというのです。背景には、96年から薬丸裕英さんと岡江久美子さん司会で8時半からスタートしていた「はなまるマーケット」が着実に成功への道を歩んでいくなか、いまいちブレイクしきれないのは前の番組が弱いためで、ここを強化することで他局とのせめぎ合いを制したいという思惑があったようです。

 森本さんは、そのプロジェクトのメンバーに参画をされると聞き、「それは大変ですね、頑張ってください!」と、半ばよそ事のように聞いていると、なんと「自分が担当する木曜か金曜でコメンテーターとしてレギュラー出演をしてくれないか」という言葉だったのです。「えっ!朝5時半に番組がスタートするということは、4時半に局に入らなくてはいけない。ということは、3時半に起きないといけないのか?」と、番組のことよりも、まず時間のことが最初に頭をよぎりました。もちろん、お断りをさせていただいても良かったのですが、お世話になった森本さんから、この私などにお声がけをいただいて、お断りするのも如何なものか?という思いもあり、お受けすることにしたのです。3月7日、赤坂の麦屋で開かれた会食の席には、チーフプロデューサーの吉崎隆さんもお見えになり、濃厚な味の「冷やし胡麻味噌そば」をいただきました。

 実は、お受けさせていただいた理由はもう一つあって、「みのもんた」という人が、一体どんな仕事をされるのかを見てみたいと思ったのです。みのさんが、1989年の4月から、視聴率の低迷していたNTVの月~金ベルト番組「午後は〇〇思いっきりテレビ」の2代目司会を務められるようになってから、視聴率も上がり、フジテレビの「笑っていいとも」に次ぐ人気番組になっていたのです。当時、みのさんはこれ以外にも「ファイナルアンサー!?」という言葉が流行語になった、フジテレビの「クイズミリオネア」やTBSの「動物奇想天外」、文化放送の「ウィークエンドをつかまえろ」などのレギュラーの他に単発番組なども抱え、2004年には芸能人所得番付の1位にランクされる売れっ子になっていたのです。

 さらにその上、月~金の3時間ベルト番組を始められると聞いて、「どうしてこの人は、ここまで仕事をされるのだろう?」という疑門もありました。もちろん、「求められるうちが花」ではありますが、それにしても5時半から8時半までベルト番組の司会をして、その後12時から13時55分までの番組の司会をするなんて聞いたことがありません。おまけに99年からは亡くなったお父様の後を継いで、水道機器メーカーの製造・販売会社「日国工業」の社長まで務められていたのですから、まさに超人というほかありません。

 聞くと、みのさんは立教大学を卒業された後、22歳で文化放送に入り、「セイヤング!」や「ダイナミックレーダー」のパーソナリティとして人気を博したにも拘らず、28歳の時に「若返り」を理由に、販売促進の業務に配転され、34歳で退社。お父様の会社に入り、営業マンとしてライトバンで全国を訪れる日々が続きます。そんな中、小さな工場で昼飯を食べていると、テレビにタモリさんが出、夜に一杯やっていると久米宏さんがテレビに出ていて、「自分もあの世界にいたのに・・・」という思いを抱えながら10年ほどたった時、知人からフジテレビの「プロ野球珍プレー好プレー」のナレーションをやらないかという話が来て、これが面白かったこともあって、同局の「なるほど・ザ・ワ-ルド」の国内レポーターや、「オールナイトフジ」の深夜の家庭訪問のコーナーを受け持ち、コミカル/サブ司会者として認知をされるようになっていったのです。みのさんが、ここまで仕事をされるのは、まさにこの「失われた10年間」の空白を埋める作業でもあったような気がします。

森本典嗣さんと長岡杏子アナ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

CPの吉崎隆さん

 

赤坂 麦屋の「冷やし胡麻味噌そば」

 

 

 

 

 

「クイズ ミリオネア」

 

「どうぶつ奇想天外」