木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 この2005年は、ことのほか慌ただしい年になりました。前年にNPO法人「まち・すまいづくり」の方からの誘いもあって、顧問として参加するようになり、この年4月に創刊をする、大阪の歴史発祥の地といわれる上町地区(天王寺区・阿倍野区・中央区東部)で発行する、フリー・ペーパー「うえまち」のコラム執筆や、イベント出演、地区の著名な方との対談を依頼され、引き受けることになったのです。

 都合2009年の7月まで、務めさせていただいたように記憶していますが、その間に、上町台地の歴史や文化の要、和宗総本山「四天王寺」を訪ね、菅長の出口順得猊下から、聖徳太子が建立されたこの寺のある上町台地の歴史が奈良や京都に比べてはるかに古いことを教えていただきました。実は以前から、漫才師2代目平和ラッパさんの「天王寺の亀、豆噛めまんねんなぁ」というボケたセリフで聞いていたこともあって、なんで中心伽藍の北側の池に、たくさんの亀がいるのか不思議に思っていた、まさかそんなことを猊下に聞くわけにもいかず、調べると、元々この蓮池の南東に「亀井堂」という建物があって、捕まえた魚や鳥獣を放す「放生会」の際に、人々が亀井堂の名に因んで亀を放したことから、いつしか亀池と呼ばれるようになったといいます。

 また、「一心寺」では、前住職の長老・高口恭行師から、上町台地のほぼ中心となる夕陽丘の地名が、1185年後白河上皇・慈鎮和尚・法然上人がここで夕日を眺め和歌を詠んだ「日想観」に由来することなどを伺いました。

 「愛染まつり」の際には、阿倍野近鉄百貨店前で、祭りで選ばれた愛染娘たちに囲まれて、宝恵かごパレードの出発式の挨拶をした後、ゴール地点の四天王寺別院の「勝曼院愛染堂」を訪ねました。昭和10年代に上原謙・田中絹代、20年代に鶴田浩二・京マチ子、30年代に吉田輝男・岡田茉莉子のコンビで製作された、恋愛映画「愛染かつら」の舞台として知られるロマンチックな所で、境内には吉田輝男さんが植樹された愛染桂の木がありました。それにあやかって、私も恋愛成就、いや夫婦和合をお願いして帰ったのは言うまでもありません。霧島昇さんが歌った「花も嵐も踏み越えて〜」という歌詞で大ヒットした「旅の夜風」は、この映画の主題歌だったのです。

 夏祭りといえば、天神祭、住吉祭と並んで大阪の3大夏祭りといわれ、「川の天神」「陸のいくたま」と並び称された難波大社・「生國魂神社」の夏祭りにも行きました。境内を練り歩く枕太鼓の迫力を目にした後、中山宮司から、江戸初期には既に多くの参拝客が集まる神社となって、1673年には、井原西鶴が俳人200人を集めて句を詠み継ぐ「生玉万句」や、1680年には1日に4000もの句を詠む「矢数俳諧」を行い、1688年には、米沢彦八が生國魂神社で自作の笑い話を披露、これが上方落語の発祥といわれ所以であることや、同社がかつて大阪城付近に鎮座していた頃から数えて400年を経て「大阪薪能」を復活されたことを教えていただきました。

 また、上町大地の北端にある大阪城を訪ねた際には、大阪城と豊臣秀吉の研究に加え、様々な大阪再発見企画を打ち出されている、大阪城天守閣研究副主幹の北川央さんから、今の大阪城は徳川秀忠が藤堂高虎に命じて天下普請をして、旧秀吉時代の大阪城に盛土して造ったものであることや、巨石を組み合わせる石工の技術の高さもあって、阪神淡路大震災時にも、さほど被害を受けなかったというお話を聞かせていただきました。また、上町台地は、神代の昔から歴史・文化がびっしりと詰まった特別な地域で、「私は大阪の背骨と呼んでいる」ともおっしゃっていました。」

 他にもこの地には、真田幸村に縁のある「茶臼山」や「円珠院」、「三光神社」、「安居神社」、「心願寺」などがあり、玉造の旧細川家屋敷跡にできた、大阪カテドラル聖マリア大聖堂の西端には「細川ガラシャ夫人」の有名な辞世の句を刻んだ碑があり、緒方洪庵の適塾に入門り、塾頭になったのち日本陸軍の創始者となった「大村益次郎の殉難碑」が法円坂にあることを知りました。

出口猊下と聖徳太子の像が描かれた掛け軸前で

 

四天王寺の境内(亀の池の前)

 

天王寺の亀

 

高口恭行師

 

愛染娘たちに囲まれて

 

 

 

愛染かつらの木

 

 

 

生國魂神社の夏祭り

 

 

 

幸村が最期を遂げた安居神社