木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 その後、10月31日から11月1日にかけて、「いつもの会」のメンバーの」中曽根純也さんと鈴木修美さんを誘って、長野県の小布施町を訪れました。長野県北東部、千曲川の東岸にある人口1万人ほどの小さな町で、晩年をこの地で過ごした葛飾北斎をはじめとする、歴史的遺産を活かした町づくりで人気を呼び、北信濃有数の観光地として、とみに認知度を高めていたのです。ちょうど、この年の2月11日に開かれたパーティにお招きをいただいたこともあって、その際に、初めてこの地を訪ねたのですが、すっかり魅了されて、お二人に伝えたところ、「ぜひ行ってみたい」ということになったというわけです。

 そうそう、その折、長野駅で「あさま515号」から降りるべく歩を進めていて、2000年から長野県知事を務められていた田中康夫さんと会い、改札口へ向かいながら、「これから小布施町へ向かいます」と言うと「小布施はとてもいい街ですよ、でも、いま県が進めている長野市との合併は拒否してるんですよね」とおっしゃったのを憶えています。

 私が田中さんにお会いしたのは、かつて私がプロデューサーを務めていたKTVの「さんまのまんま」に出ていただいた時以来でした。改札口まで来て、迎えが誰もいないのを怪訝に思って尋ねると、「いや、いつも一人なんです」とおっしゃって、大きな紙袋を抱えながら去って行かれました。一瞬、「よほど人徳がないのかな?」という思いが頭を過ぎりましたが、そんなことがあるはずもなく、ただ職員に余分な負担を掛けまいとする親心の故だった・・・のだと思います。

 もう一つ、私の心の中には、どこかで、「堺市の町づくりの参考になれば?」という思いもあったように思います。もちろん、人口80万人の堺市と、1万人の小布施町を一様に論ずることは出来ませんが、小布施という町から、何かヒントを得られるかもしれないという気がしたのです。

 実は、この小布施を訪ねる気になった背景には、セーラ・マリ・カミングスという女性の存在があったのです。2000年10月20日に、東京のホテルグランドヒル市ヶ谷で、私が日本酒造組合連合会の講演をさせていただいた際のことでした。セーラさんが聴衆として参加されていて、講演が終わった後に、理事をされていた伏見の酒「月の桂」の増田社長から紹介をされて名刺交換をした折に、肩書を見ると「桝一市村酒造 取締役唎酒師」と書かれていたのです。青い目をした彼女と、唎酒師というタイトルのギャップに驚き、聞いてみると、彼女はアメリカのペンシルベニア州の出身で、オリンピックが開かれる予定の長野に来た際に、小布施の町に魅せられて、94年、栗菓子を製造販売する小布施堂・社長の市村次夫さんに、3時間の面談を経て入社されていたということがわかりました。

 晩年の北斎を支援した豪商・高井鴻山に因んで、「現代の高井鴻山」とも称される小布施堂の17代目社長である市村さんとしては、80年代から始めた「町並み修景事業」が一段落ついて、どこかで皆が安堵感に浸っていた現状に危機感を覚えられていた時期でもあり、「ここらで新たな異分子を投入して再活性化を図らなければ!」と考えられたのだと思います。

 入社後、セーラさんは、96年に外国人としては初となる「唎酒師」の資格を取り、97年から小布施堂が経営する枡一市村酒造の改革に取り組むようになります。2月に冬季オリンピックの開催された98年の4月には、「第3回国際北斎会議」を小布施で開き、10月には、酒造職人の蔵人が酒造りの期間に食すという、伝統の「寄り付き料理」を提供するレストラン「蔵部」をオープン、併せて桝一の屋号を象徴する新しい銘柄酒「スクエアワン」を世に出しました。次いで99年には、50年ぶりに木桶仕込酒を復活させました。たしか「白金」という名前だったと思います。こうして彼女は、時として起こる周囲との軋轢をものともせず、目まぐるしい成果を上げていくようになったのです。

 また、2001年8月には、月に1回、各分野からゲストを招いて地域の若者との知的交流を図る文化サロン「小布施(オブセ)ッション」を、03年1月には「1530(市ごみゼロ)運動」を、同年7月には「小布施見に(ミニ)マラソン」を始めるなど、市民の方々との交流も深め、その活躍もあって、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞」(日経ウーマン)や、「人間力大賞2003・地球市民財団特別賞」(日本青年会議所)を受賞されていました。

中曽根さん(左)と鈴木さん(右)との3ショット

しなの10号

田中康夫さん

小布施の町並み

「月の桂」増田徳兵衛 社長

木桶の前に立つセーラ・マリ・カミングスさん

 

枡一市村酒造場の外観

市村次夫 社長

 

レストラン「蔵部」