「この人たちは一体何を求めてこの有名塾へ来られたのだろう?」、そう考えながら期を重ねるうち、次第に私の頭の中で明らかになってきたことがありました。この人たちが、資格を取れるわけでも、ノウハウが得られるわけでもないこの塾に来られるのは、「他の人と関わりたい」、そして、「自分という存在を他の人から認めてもらいたい」ということではないかと思うようになったのです。
人間を定義して、ホイジンガはホモ・ルーデンス(遊戯人)、リンネはホモ・サピエンス(英知人)、ベルグソンはホモ・ファーベル(工作人)という言葉で表しましたが、私の心に最もフィットしたのは、太田肇さんの唱えられた「ホモ・リスペクタス」(人は認められたい存在である)という言葉でした。
総てがシステム化され、効率化が極限まで進んだ現代社会にあっては、個人がコモディティ化されて、総ての人が匿名の中で生きることを余儀なくされていたように思えたのです。
本来、人は誰もが「自分の存在を他の人に認めてもらうために生きている」のだと思うのです。それなら、この有名塾という場を、参加したすべての人たちが、個人として認められるようなハレの場にしようではないかと考えたのです。塾生さんたちとの意思疎通を図るツールとしての交換日記は、そのためにも欠ことかすことができないものとなりました。
2006年の9月23・24日には、更に親交を図るべく、修学旅行と称して27名の塾生さんたちと、1泊2日のバスツアーで和歌山県日置川町(正確にはこの年の3月1日に隣接する白浜町と合併して西牟婁郡白浜町日置となってはいたのですが)まで出かけたこともありました。チャーターしたバスで近鉄難波ビルを出たのが朝8時、現地に着いたのが12時半ですから結構な行程でしたね。さっそく宿泊する「リヴァージュ・スパひきがわ」で昼食を取り、町内をバスで散策した後、午後2時から役場でIターンを実践された鈴木さん夫妻から皆で話を聞き、その後4グループに分かれ、カヌー、漁業、陶芸など体験型観光「ほんまもん体験」に参加。熊野古道大辺路の富田坂を下った安居(あご)集落から仏坂へ、日置川を越えて渡す船にも乗りました。
その後、「リヴァージュ・スパひきがわ」に戻り、海・山・川の幸いっぱいの夕食を取った後、「大好き日置川の会」の皆さんたちや、和歌山県「新ふるさと推進課」の方々と意見交換をして、各グループごとに、深夜まで翌日提案する「町の振興案」についてのミーティングを重ねました。
翌日におこなったプレゼンの場には、審査員として「大好き日置川の会」の奥山沢美会長の他、当時、改革派の知事として知られていた木村良樹和歌山県知事や、議員の方もお見えになり、都会から子供を受け入れる「心の交流案」や各市町村による「和歌山元気祭り案」、ほんまもん体験やボランティアをすると貯まる「ヒッキーカード案」、南紀日置川よいところ、心も体もリフレッシュと歌う「日置川音頭案」などを提案、好評のうちに終わることが出来ました。
その後に審査員の方々と地域のボランティアの皆さんを交えて、日置川畔の向平キャンプ場でおこなわれた交流会では、天然の鰻や鮎、川海老、地元の名品「川添茶」を使った茶粥などに舌つづみをうったのは懐かしい思い出となって、今も脳裏に残っています。塾生の皆に、「大好き日置川名誉観光大使の名刺までいただき、感動の内に幕を閉じることが出来ました。
実は、木村良樹知事とは、これ以前に、ある方のご紹介で2000年7月21日に、南海サウスタワーホテル(現スイスホテル南海大阪)の花暦で会食をしたことがあったのです。確か当時は、大阪府の副知事をされていて、横山ノックさんがセクハラ事件で知事の職務停止に陥った後、大阪府知事職務の代理者を務められていたのですから、当然のごとく次期大阪府知事候補になられると思っていたのですが、「セクハラ事件の後は男性ではなく、女性候補の方がいい」という声があったのか、それまで大阪とは縁のなかった、元岡山県副知事でもあった呉市出身の太田房江さんが候補となり、そのあおりを受けて、木村さんは、急遽和歌山県知事選に回らざるを得なくなったのです。その結果、この2006年の暮れに、2期目の任期中に和歌山県知事職を辞任せざるを得なくなった経緯を考えると、(責めを負うのはご本人であるにしても)この方も、ノックさんに、自身の運命を翻弄された、お一人だと言えるのかもしれませんね。
ホモ・ルーデンス
周囲から認められることを求め、承認欲求によって動機づけられる人間を「承認人(ホモ・リスペクタス)」と太田肇さんは唱えられています。
これは知らなかった
これは関係ありません
木村良樹知事とツーショット
和歌山県の広報誌「連」で対談させていただきました
南海サウスタワーホテル
「花暦」