
宋代の仏典・碧厳録に「啐啄同機」という言葉があります。卵が孵化するときは、卵の中のヒナが自分のくちばしで殻を破ろうとし、また親鳥も外からこの殻を破ろうとします。そのタイミングがピタッと一致するからこそ、ヒナ鳥はこの世に生を受けて外の世界に出ることができ、どちらか一方が早すぎても、遅すぎてもいけない、自然の摂理の時を表す言葉なのだそうです。
今にして思えば、この時の私は、まさにこの「啐啄同機」にあったといえるかもしれません。もっとも当時56歳であった私の場合は、ヒナ鳥ではなく、「ヒネ鳥」と呼ばなくてはいけないのかもしれませんが・・・。新聞報道が一段落した後、東京の自宅へ戻った際に、娘から「お父さん、凄い!上戸彩ちゃんより上なんだ!」と言われ、手渡されたスポーツ新聞を見ると、私が辞めるという記事が、上戸彩さんの記事より上に載っていて、「凄いの意味が違うだろ」と苦笑したことがありました。
その後も、週刊誌や月刊誌の取材は続くのですが、その間にお世話になった各局の然るべき方々へのご挨拶もすませ、10月7日に会社へ出ると、吉野伊佐男さんから「制作部会に出て欲しい」と促され、幾分、逡巡するところはあったのですが、会議の冒頭の5分間ほど、別れの挨拶をして部屋を出ました。最後の出社日となった10月9日には昼過ぎに会社を出て、気が付いて駆け付けてくれた3,4人の女性社員たちに見送られて会社を離れました。こうして、33年間の吉本興業での生活は終わったのです。林社長のご長男、林正樹さんが吉本興業に入社されたのは、この翌日のことでした。
会社を出た後、私は京都へ行き、八木町長時代からKBS京都さんを通じてお世話になっていた、JA京都中央会長(現JAグループ京都会長)の中川泰宏会長に催していただいた慰労会に臨みました。中川さんはその後、2005年に小泉首相から推され、JA会長のまま衆院選に出て当選されました。
翌10日に入り京都から東京へ移動をして、八重洲にある全信連ビルで開かれる講演会に向かって歩いていると、すれ違う人の何人かから、自分に向けられる視線のようなものを感じました。そしてこの夜、六本木の全日空ホテルで、ソーホーズの月川社長と会い、今までの経緯などを説明させていただき、吉本興業の人間としての仕事を、総て終えることになったのです。
と、簡単に記しましたが、ここまで来るのは結構大変で、とても自分一人の力ではできなかったように思います。かといって、他の社員に迷惑をかけるわけにもいきません。そこで目を付けたのが、当時私の秘書を務めてくれていた松川真弓さんという女性でした。彼女はこの3年半ほど前から、奥谷禮子さんが82年に設立された、ザ・アールという人材派遣会社から吉本に来ていて、当初は、私の他にも吉野さんや谷垣さんの秘書役を務めてくれていたのですが、お二人が社内におられることが多く、いつしか、あちこち飛び回っている私の専属秘書のようになっていたのです。大阪の八尾市に生まれ住んでいたこともあって、私が金東光さん原作の舞台となった町だけに、映画「悪名」のように、「今でも、駅前でシャモの闘鶏やってんの?」と尋ねると、「ポカーン」としていたのが印象に残っています。今にして思えば、1960年代に作られた作品ですから、20代の彼女が知っているわけありませんよね。大学は立命館の通称「パラ産」と言われている産業社会学部に入り、もっぱらアーチェリーに勤しんでいたといいます。体育会系だけあって体力・精神ともにタフな女性でした。
私の部屋に呼び出したものの、さてどんな返事が返ってくるか?と思いながら「実は・・・」と話を切り出すと、「履歴書を持って行きますから、面接をしてください!」という言葉が返ってきました。おかげで、何とか個人事務所を構え、スタートを切ることが出来るようになりました。今日まで私がこうして、曲がりなりにも、今も事務所を構えていることが出来るのも、みな彼女のお陰と言っていいほどの働きを見せてくれたのです。










中川泰宏さん



全信連ビル

奥谷禮子さん

映画の原作となった「悪名」

1961年から70年にかけて16作つくられたほどの人気作品でした

シャモの闘鶏






