木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 もちろん、葛藤はありました。中邨会長や林社長にはそれなりの想いがあり、決断を下されたのでしょうが、お二人共に物故された今となっては知る由もありません。ただお二人の決断の背景にあったものは、私の存在が「矩を超えた」などということに尽きるのではないかと推察しています。

 たしかに、常務になって以来、私の活動範囲はボーダー(領域)を超えるものであったことは否めません。ただそれは、共に取締役でもあった部長のお二人に現業を任せ、自分は寧ろ社外へ出ることによって、広い意味で会社の認知度を上げるべく、半ば自覚的に行ってきたことでもあったのです。それが否定をされるなら、もはや自分がそこに留まる意味はありません。任命権は代表取締役のお二人の方にあるのですから。

 そこに至った事由については、種々の憶測が飛びましたが、一切そのようなことはありません。至ってシンプルな話なのです。なかには、気遣って、「社長と一緒に食事をしようよ!」と誘っていただいた共通の知人もいましたが、辞退をさせていただきました。食事を共にすることによって、コミュニケーションのギャップは埋められても、パーセプション(認識)のギャップは埋められないと思ったからなのです。会社と社員の関係はイーブンで、雇ってもらうのではなく,貰った給料以上の成果を返せばいい」と考えここまで走ってきたつもりですが、それが容れられないとあれば身を引くしかありません。入社以来、いつか来るだろうと思っていた、「辞める時がついに来たと」、中邨会長に口頭で辞意を伝えました。今思えば幸せな33年間でした。たとえ、自分があれ以上、会社に残っっていたとしても、多分それまで以上にいい仕事は出来なかったように思っています。

 手続き的には9月30日に開かれた役員会で、10月10日をもって退職することが決まったのですが、私がゲスト出演をした収録済みの「ナンバ壱番館」という番組の放送日を、退職前の9月26日に前倒しすることを依頼したため、瞬く間に噂は広がりました。

  妻にはこの少し前、東京の自宅を出る際に、「もしかすると、会社を辞めることになるかもしれない」と伝えていました。反応は至ってそっけなく、返ってきたのは、「どうして?」「これからどうするの?」ではなく、これからも(10年来、恒例となっていた)フロリダへ行けるのかしら?」という言葉でした。私が「たぶん行けると思う」と答えると、「じゃ、辞めてもいいわ」と、暗に「これまでと同じ生活が守れるのね」という意味を込めた、優しさの中にもプレッシャーのかかる言葉を返され、思わず「見事な攻撃だタケちゃんマン」と叫びそうになりましたね。

 一方、大阪の枚方市に住む母に伝えたのは、それより少し後の10月2日のことでした。夜中の0時を少し回った頃に帰宅すると、日経新聞の天野さんという女性記者が、我が家を訪ねて来ていたのです。タレントさんが事件を起こしたときにはよくあったことで、「また、誰かが事件を起こしたの?」と尋ねた母に、「いや、多分自分のことだと思う。実は会社を辞めようと思ってる」と伝えると、「あっそう、私には年金もあるし、あんたが会社を辞めて、収入が無くなっても関係ないわ」と、あっさりと承諾してくれました。

 ところが、この記事が翌日の朝刊に出たものですから、さあ大変。9時過ぎに出社すると、新聞記者の皆さんが押しかけてきて、「会社を辞めるのに会見するのも如何なものか」と、個別に取材を受けることにしました。

 2時間余りかけて、10社ほどの取材を終えた後、名古屋へ向かい朝日ホールでの講演を済ませた後に帰阪、友人と待ち合わせた北新地のクラブへ顔を出すと、なじみのホステスさんから、いきなり「会社辞めるんだってね」と聞かれたのです。ママならともかく、およそ彼女が日経新聞を読んでいるとも思えなかったので、「えっなんで知ってるの?}と聞くと、「店に出る際に見た、マルビルの電光ニュースに出ていた」と言われ、「たかが自分が辞めるくらいのことで、ニュースになるのか」と不思議な思いに駆られました。

 このマルビルは、丸の内にあってその名前が付いた東京とは違って、形が円筒形であるところから名付けられ、当時、サントリーの鳥居道夫さんや森下仁丹の森下泰さんと共に、「大阪3ケチ」の1人と言われた、吉本土地建物社長の吉本晴彦さんの持ち物で、吉本興業とは何の関係もなかったのですが、どちらもお金にシビアだということは共通していたのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

大阪マルビルの電光ニュース

こんな風にニュースが流れていました

吉本晴彦さん