木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 東西2本社制になってから、制作部門ばかりではなく、テナント部門を扱う事業部までを管掌するようになった私ですが、部員を見ていると制作部と違って、皆が温和しく、おまけに、銀行出身の谷垣取締役部長も、秘書室長から転じられた温和な方とあって、イケイケの気風の制作部育ちの私には少し物足りなく思えたのです。もちろん、お入り頂いているテナントさんたちと良い関係を維持するのは大切なことではあるのですが、メンテナンスばかりではなく、クリエイティビティのある事業部にしたかったのです。そこで目を付けたのがキリンビールから吉本に転じ、当時東京本社にいた橘田淳史君だったのです。

 橘田君は、90年代にキリンビールが、NY帰りの空間プロデューサー・森本泰輔さんに依頼をして、JR大阪駅の高架下に開いて話題を呼んだビアホール「ジャングル・ダ」に関わった、発想力や行動力や突破力に優れた人材だったのです。吉本に入った経緯には関与してはいませんが、彼なら何か新しいことを考えてくれるのではないかと思い、彼に目を付け、横澤さんや大崎君に頼んで、2001年10月に大阪に転勤させて、事業企画部門を任せようと思いました。

 ちょうどそんな時に、吉本が、関空やJTBさんから、落ち込んでいる日本人の海外旅熱を回復させるための策の依頼を受けていたこともあって、彼に振ったところ、彼から出てきたのが、JTBが主催し、JALのB747を丸ごとチャーターして、宮川大助・花子さんを隊長に、350名のツアーをハワイへ派遣、関西人のパワーを運んで、ハワイを元気づけようという「ハワイ励まし隊」という企画でした。2002年4月24日から3泊5日で実施されたツアーは、発売当日に完売、大好評を博したのです。このツアーをサポートしたのが縁でYTE(よしもと・トラベル・エンターテインメント)の社長に就いたのがチビ太君こと、平野龍平さんだったというわけです。因みに森本泰輔さんは、その後、東京へ出て、音楽事務所「タイスケ」を設立し、東芝EMIからウルフルズをブレイクさせました。

 当時、事業部が抱えていた大きな問題は、NGK地下のスペースをどう活用するかということでした。当初は洋画のロードショーを扱う映画館として建築する予定だったのですが、竣工の間近になって「もはや映画の時代でもあるまい」ということになり、急遽ディスコに転換、「Desse Jenny」(デッセジェニー)として87年11月1日にオープン、明石家さんまさんが「銭でっせ」をもじって名付けたという店名の話題性や、ゴージャスな内装もあって、折からのバブル景気に乗って繁盛していたのですが、92年マハラジャの閉店に象徴されるディスコ冬の時代を迎え、その幕を閉じ、96年5月からは、ゲームセンターの中に競馬場がある「ロンゴロンゴ」を招致していたのですが、この「ロンゴロンゴ」が2002年の2月に撤退をすることになったというのです。

 「デッセジェニー」は林さんが社長を務めた、子会社のパシフィックエンタープライズ、「ロンゴロンゴ」は当時事業部を管掌していた平戸さんの手で行われ、私の関与するところではなかったこともあって、さほど関心を持つこともなく過ごしてきたのですが、今度はそうはいきません。皆でミーティングを重ねる中で、橘田君の口から出てきたのが、「オモシロオカシイ・レストラン」を標榜する台湾小皿料理店の、「青龍門」という名前で、経営をするのは「ソーホーズ・ホスピタリティ・グループ」だとわかりました。この会社は、早々に1976年に「月川産業」として設立をされて、ピザハウス「ジロー」の展開を機に、80年代にはイタリアンレストラン「ソーホーズ」、90年に「青龍門」や、「ロイズレストラン」などを積極的に展開し、98年には海外でも著名なシェフ、ノブ・マツヒサの名を冠したレストラン「NOBU東京」を南青山に開店、六本木ヒルズや丸ビルなどの高額テナント物件に相次いで進出をするなど、まさに事業を積極的に事業拡大をしている最中にあったのです。

 

森本泰輔さん

 

 

ロンゴロンゴの地図

 

 

 

デッセ・ジェニー入り口

デッセ・ジェニーの店内

デッセ・ジェニーのスタッフに囲まれた明石家さんまさん