この他、2002年4月8日には、96年11月3日の開局以来、低迷していた「エフエムちゅうおう」(ステーションネーム・YES-fm)を活性化するため、担当者を眞邊明人君に変えて、01年12月に女子小・中生向け雑誌「ニコラ」の専属モデルとしてデビューし、KTVの「バトラク」から派生したダンスユニット「SOUL TIGER」でメイン・ヴォーカルを務めていた虎南有香さんを、「史上最年少の放送局長」に起用するなど新機軸を打ち出すことにしました。併せて、それまで制作部門からの援助で成り立っていた体質を改め、新たにスポンサーを獲得するなどして3か月で単月黒字に転換をすることができたのです。
5月9日には新会社、YTE(よしもと・トラベル・エンターテインメント)の設立発表を行いました。以前「吉本ツアーズ」という会社があったのですが、社内からの依頼をただ待つだけで、自ら積極的に打って出る姿勢に欠けていたように思えたので、新たに外から社長を迎え、社名も変えて再出発を図ることにしました。新社長にはIBM関連の旅行会社にいた平野龍平さんという、見た目には漫画「おそ松くん」に出てくる「チビ太」のような方になっていただきました。なかなかのアイデアマンで、さっそく、橘田君と共に、観光振興策として「よしもと温泉・観光地グランプリ」を企画し、同月の14日には大阪日航ホテル、17日には東京のホテルオークラで、全国からホテルや旅館のオーナーを集めてプレゼンテーションを行い、6月5日には2人の案内で、扇千景大臣にお会いする前段として、国交省の小幡次官を表敬訪問しました。
そうそう、この折に、「例えば大阪で地下鉄を24時間走らせるといったことは、国交省が許可しないんですか?」と日ごろ疑問に思っていたことを次官に尋ねてみると、「そんなことはありません。可能ですよ」と意外な答えが返ってきたのを憶えています。更に、以前鳥取の観光協会に行った際に、私が「砂丘をライトアップすべきだ」と言ったら、「それは環境庁が許可しないから無理です」と返されたことを披露すると、笑いながら「それはきっと、観光協会の人が面倒くさいから、やりたくなかったのですよ。ただのエクスキューズのために言っているだけなのでは?」とおっしゃっていましたね。
そういえば、嘗て私が網走を訪ねた際に、網走監獄を見て「博物館より、いっそホテルにした方がいいのに、名前はプリンス系であるかのように網走プリズンホテルにして、パジャマは囚人服、独房はシングルルーム、雑居房はツインかトリプルルームに、チェックアウトの際に出所証明書を出せば人気が出ますよ」と提案したのですが、「いや、国の有形文化財だからそれは無理」と一笑に付されましたが、2020年に重要文化財の旧奈良少年刑務所が「監獄ホテル」として生まれ変わると聞いて、小畑さんのおっしゃった通りだなと思いましたね。そして、7月12日には橘田君の案内で、林社長や平野君と共に、天王洲アイルにあったJALの本社に兼子社長・羽根田副社長を訪ね、その後同じエリアにあるJTBの本社で佐々木社長を訪ねました。
次いで5月13日には、NGKの1階に「ダイソー」さんに出店をしていただきました。以前同じ場所に、同様の100円ショップはあったのですが、品ぞろえも薄く、賑わいもなかったので、01年9月18に東広島にある大創産業の矢野社長を訪ね、ご担当の石川常務と共に、広島市随一の歴史を誇る老舗料亭「羽田別荘」でご馳走になりながら出店のお願いをした甲斐がありました。
更に6月3日には、「自然堂」の喜多尾将秋社長とお会いしました。場所は赤坂にあった長谷川という料亭だったと思います。喜多尾さんは奈良のお生まれで、79年「ほっかほっか亭」(現・ほっともっと)を関西で初めて独自資本でチェーン展開し、85年CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)をTSUTAYA書店と折半で出資・設立をして、代表取締役専務を務められた後、94年に「自然堂」を設立し、「極楽湯」ブランドでスーパー銭湯の全国展開を図り、02年秋にジャスダックに上場される少し前のことでした。たしか当時は直営店が5店、FCが18店舗ほどだったと思いますが、FCを長年にわたって手掛けられただけあって、そのエリアマーケティングの緻密さには驚かされました。出資ということではなく、タレントさんたちの活躍の場が広がればと思い、提携という形でお話をさせていただいたように思います。坂田利夫さんと一緒に四谷のスクワール麹町で開かれた自然堂の記者発表に臨んだのは、7月22日のことでした。
YES-fm
虎南 有香さん
「SOUL TIGER」
この中の誰かに似ています
チビ太
平野龍平さんです
ホテルとして活用される奈良少年刑務所
喜多尾将秋社長