年が明けて、2002年。この年は私にとって誠に感慨深い年となったわけですが、それは、おいおい記すことにします。2月4日、予てよりお付き合いのあった一柳良雄さんからお電話をいただき、赤坂の「外松」という料亭で、政治家の亀井静香さんにお会いさせていただきました。別に何をお願いするということではなく、テレビで拝見する亀井さんのキャラクターに魅力を感じていて、一度お会いしてみたいなと思っていたのです。席には亀井さんの他に、一柳さんともう御一方がいらっしゃるくらいの砕けた雰囲気で、私が「亀井先生のマネージメントを吉本でさせていただけませんか?」とお話すると、「いや、公僕としてそれは出来ないが、歌手としてならいいよ!」とおっしゃって、外に控えていた専属バンド、と言ってもアコーディオンとギターの2人を席に呼び込まれたのです。
さっそく歌を聴かせていただいたのですが、あまりのシュールさにたじろぎながら、ふと周囲を眺めると、皆さんにとってはいつものことなのか、ごく普通に談笑をされていました。ひとしきり独唱が終わった後、亀井さんから「どうかね?歌手としては?」と尋ねられて、「1回の出演で500円なら考えてみます」と答えました。吉本では新人のギャラは500円からスタートと決められていたからです。残念ながら交渉はまとまらなかったのですが、亀井さんとはこの後、6月16日にフジテレビの「報道2001」でご一緒させていただいた折、ご挨拶をすると、親し気にご挨拶を返していただき、周囲のスタッフが驚いた目で眺めていたのを憶えています。もっとも、亀井さんは、番組前半の硬派のコーナー、私は柔らかい後半のコーナーと別れてはいましたがね。
番組の終了後にエレベータまでお見送りいただいた、キャスターの黒岩祐治さんに「選挙に出てくださいよ!」と声をかけると、「いやいや!」と手を振っておられましたが、2009年に、29年間キャスターを務められていたこの番組を降板して、フジテレビを退社された後の2011年に神奈川県知事となられました。
亀井さんは衆議院議員を13期務め、運輸大臣、建設大臣、自民党政調会長、内閣府特命(金融)担当大臣など要職を務められた後、2017年10月5日政界を退かれました。
5月27日には、イベント企画会社のリップさんと共に、アナウンサー養成学校の「アナ・トーク学院」を立ち上げ、記者発表を行いました。ギャラの取れる「シャベリスト」の養成を目標に、週1回半年間のカリキュラムでアナウンス技術を基礎から指導し、卒業後は吉本が制作するイベントや公演に出演できるようにサポートをするというもので、学院長には、私が生まれる前からラジオパーソナリティをされていた?ベテランの鈴木美智子さんにお願いをして、特別顧問に私が入り、学院の運営をリップさんに担っていただくことになりました。
更に、この年の1月13日に、小泉首相がシンガポールのゴー・チョクトン首相との間でサインされた「自由貿易協定」(正確には「日本・シンガポール新時代経済連携協定」)に乗る形で、7月に「吉本シンガポール花月」を行うことを発表しました。3年ほど前からこの地に乗り込んで活動を続けていた笑福亭鶴笑さんを中心に、7月7日、ホテルニューオータニ・シンガポールの、フェニックスボールルームで公演を行い、それだけでは面白くないので、本気で「お笑いの自由貿易をしたい」と槙田邦彦大使にお願いに上がったところ、二つ返事で後援を引き受けていただいたのです。前夜、私が6時間20分のフライトを終え、チャンギ空港に着いたのが22時を過ぎていたため、翌7日に槙田大使を尋ねて、大使館の料理長から手造りの昼食までご馳走になりました。
槙田さんは、田中角栄さんが成し遂げた日中国交に尽力されたこともあって、アジア太洋州局長を務められていたのですが、写真週刊誌に美人ホステスさんとの手つなぎデート写真を撮られ、シンガポール大使に転じられて間もない頃でした。それを命じた当時の外務大臣が、田中真紀子さんだったのですから、何とも不思議なめぐりあわせというほかありません。短い時間ではありましたが、ひげを生やした風貌といい、フランクなお話のされようといい、とても人間味に溢れていて素敵な方でした。その後、公演に立ち合って、出演者や、津田君などスタッフと会食、関西空港に戻ったのは、日付の変わった8日朝の6時15分でした。
亀井静香さん
これは歌っているのではありません
一柳良雄さん
「外松」
黒岩祐治さん
笑福亭鶴笑さん
ホテルニューオータニ・シンガポール
槙田邦彦さん
シンガポールの日本大使館