木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 そもそもABCはTBSとネットを組んでいたのですが、1975年3月に腸捻転解消と言われたネットチェンジがあり、NETとネットを組むようになったのです。当時はTBSの番組が強力とあって、互いに東西民放の雄として君臨していたのですが、NETは(Nippon Education Television という名前の通り、教育番組を50%以上、教養番組を30%以上作ることを義務付けられた教育専門局としてスタートしたこともあって、どちらかというとエンターテインメント番組でヒットしたものが少ない局だとされていました。おまけに、ABCの方が設立年度も早く、ヒットした番組も多いということもあって、「NET何するものぞ!」という風潮が漲っていたように思います。おかげで、当時数少ないNETの人気番組「大正テレビ寄席」でさえ、大阪にはネットされず、大阪のABCでは、同じ時間帯に「あっちこっち丁稚」を放送していたのです。まあ、吉本にすればどちらの番組にもタレントさんが出ていたのですから、有難いことではあったのですがね。

 その後、73年、同じ教育専門局としてスタートした東京12チャンネル(現テレビ東京)の経営不振などもあって、総合局免許が下りたのですが、硬いものは得意だけれど、柔らかいものは苦手という体質は、まだ残されたままだったのです。77年に意識変革を図って社名をANB(Asahi National Broadcasting: :全国朝日放送)と名前を変えたのですが、これまで朝日放送という名前にプライドを持っていた人たちからは、「俺達、朝日放送の前に、なんでわざわざ全国という名前をつけるのか」と反発を呼んだことは想像に難くありません。

 当然、同じことはANB側にもあって、土曜日の23時台に放送されて、関西では時に30%台の視聴率を記録していた人気番組の「探偵ナイトスクープ」でさえ、88年のスタート時にはANBにネットされず、ようやく千葉テレビが放送していたくらいだったのです。ANBがこの番組を取り上げたのは、91年1月に放送した「アホ・バカ分布図」が民放連賞を受賞して、「受賞した番組は放送しなくてはならない」という規則があるために、しかたなく放送したのが初めでした。東西の嗜好性の違いや、編成上の都合もあったのでしょうが、外から見ていると、「いまいち、しっくりいっていないな!」と感じることがありました。

 もちろんANBにしても、東西間の癒合を図るため98年から「サンデープロジェクト」をABCと共同で製作をしたり、プロデューサーとしてABCの和田省一さんに加わってもらうなどして人材の交流を図ってはいたのですが、ドラマや、報道番組ならともかく、「M-1」のように、ABCからの発案で、漫才のコンテストを、しかもゴールデンで、2時間の生放送をするということには抵抗感があるのかな?」という気がしたのです。フジテレビやNTVのように、嘗てMANZAI番組で成功した体験のない局だから、仕方がないと嘆いていても始まりません。何とか叶える手立てはないものかと思案していた、ちょうどその頃、ABCの和田さんからお電話をいただいたのです。

 和田さんは、この年の1月からANBの取締役として出向されていて、「7月12日、ホテルオークラで、ANBの河合久光取締役から頼まれた講演会があるので、そこで話してくれないか?」とのお話でした。なんでも、スポンサー企業の管理職に向けての講演だと伺って、即断でお受けすることにして、普段の話もそこそこに、最後の3分の1くらいは「M-1」の話をさせていただきました。その後、和田さんを交えて、はじめてお目にかかった河合さんともじっくりとお話させていただきました。河合さんは、皇さんと同じ慶応のOBでも、大きな顔でも、広い顔でもない普通サイズの、とてもジェントルな方で、真摯に耳を傾けていただきました。もちろん和田さんをはじめABCさんのお力があってのことだとは思いますが、少しは私も、役に立つことができたのではないかなと思っています。こうして「M-1グランプリ」は、無事、ANBさんでも中継をしていただけることになったのです。

 和田さんは02年ABCに戻って、取締役、以降13年に代表取締役副社長になられ、河合さんは02年に常務、06年からはテレビ静岡の代表取締役社長と会長を務められました。

59年 2つに分かれ

75年 ねじれて(腸捻転)いたものが、青線のようになりました

 

「大正テレビ寄席」

「あっちこっち丁稚」

 

 

 

ABCプロデューサーの松本修さん

 

 

河合久光さん

和田省一さん