木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 本来なら予てよりお付き合いのあった皇達也さんにお願いをするところだったのですが、あいにく、次の株主総会で、子会社の「テレビ朝日サービス」社長として転出されるとの知らせが入っていたのです。すぐにアポイントを取って、お目にかかったのは、外苑前の「URAKU青山」で、バブル期には入会金が1000万円とも噂になった、セゾングループ・コンチェルト運営の高級会員制クラブでした。私などにはとうてい縁のない所だったのですが、ホテルのラウンジと違って、顔がささないということで、ここを選ばれたと思いました。お目にかかった6月1日は、内示からやや少し時間が空いていたこともあって、一見、恬淡とはされていましたが、私には、やはりどこか不本意な思いがあったように見えました。

 皇さんは、天皇を表す古い言葉の「すめらぎ」という姓もあって、さぞかし高貴な方ではないかというイメージがあったのですが、結構フランクにお付き合いをさせていただいたように思います。

 誰から聞いたのか憶えていませんが、当時東京のテレビ局ではジョークを交えて「三大プロデューサー」と呼ばれていた方が居られて、一人は態度の大きいNTVのOさん、今一人が声の大きいTBSのIさん、最後の一人が顔の大きい皇さんだと聞いた通り、昔の映画スターのようにたしかに顔の大きい方でした。でも「大きな顔をした人」なら困りますが、「顔が大きいだけ」なら、向かいに座っても、こちらが席を後ろへずらせばいいだけのことですから、支障はありません。

 皇さんは、広島大学で学長を務められた教育学者、皇至道さんの長男として生まれ、慶応大学からNET(現 ANB)に入社して、バラエティを担当され、当時、日本教育テレビ(NET)という名前の通り、外部との付き合いが上手くないと言われた社風を破って、積極的にプロダクションやレコード会社、他局との交際を図って、萩本欽一さんやタモリさん、武田鉄矢さん、ビートたけしさんたちの番組を作り、大手プロダクション社長や、石原プロの小林専務など実力者とのお付き合いも深く、顔が大きいばかりでなく、とても広い方でもあり、同じ時期に情報・報道系の番組をプロデュースされていた小田久栄門さんと共に、「テレ朝の天皇」と呼ばれた実力者でもあったのです。

 フジテレビが「おもしろくなければテレビじゃない」を標榜して視聴率三冠王を誇っていた時代に、「報道と情報のテレビ朝日」と謳っていたこの局にあって、86年10月に「ミュージックステーション」を立ち上げた時には、局内の諮問委員会から、「わが局には『題名のない音楽会』という良質な番組があるのに、そんな番組はいらない」と反対されたというエピソードがあります。皇さんは「例え数字は取れなくても、いい番組を作ればいい」というそんな局の体質を、何とか変えようとして戦ってきた人でもあったのです。私が初めてお会いしたのは、たしか95・96年頃だったと思います。渡辺プロの杉山恵さんから、制作局長になられる前、スポーツ局長か事業局長の頃に、皇さんを紹介されたように記憶しています。もちろんそれ以前から、お名前だけは存じ上げてはいたのですが、番組ではさしたるご縁もなく、お目にかかったのは、この時が初めてだったように思います。

 以降、何度かお目にかかって、食事をさせていただいたり、相談に乗っていただいたりしていました。そうそう、98年3月には、広島市・薬研堀にある徳永寺で催された、亡きお母様のお通夜に出させていただいたこともありました。社外役員をされていた東映の京都撮影所や、系列局のABCへ来られた時などは、決まってお呼びがかかり、北新地へ繰り出したりしていましたが、実はこの皇さんも、私同様に酒が飲めないのです。いつだったか、銀座へご一緒した時タクシーが捕まらず、「日本一値段の高い喫茶店へ行こう」といわれて立ち寄った「ON」というバーで、2人してコーヒーだけ飲んで帰ったことがありました。電通通りの7丁目にある、リーフパイで有名な、「銀座WEST」本店の近くにあるバーで、2人でなんと1万円を取られ、「暴力バーだ!」と、ママに悪態をついて店を出たのですが、その後もなぜか、結構この店に通った記憶がありますね。

URAKU青山

これに乗って

会員専用ラウンジで話をしました

普通に正対すると、これくらいしか視野に入らない皇さん(イメージ)

1/30に縮小した皇さん

1/50に縮小した皇さん

お父様の著作

「欽どん」

「スポーツ大将」

 

「ミュージックステーション」

 

広島・薬研堀にある徳永寺

 

銀座WEST本店