そこで考えたのが、梅田花月シアターを、活動の拠点となる小劇場にできないかというプランだったのです。そこで、3年にわたって映画を上映していた「シネマワイズ」を、2001年の3月20日に一旦閉じて、7月から「よしもとrize-1シアター」として再開することにしたのです。ただ当初は他の小劇団に頼らざるを得ないにしても、やはり「自前の劇団を持たないと!」ということで、所属俳優の井田國彦さんを座長に、女優のちすん、漫才コンビ「ジパング上陸作戦」や「ピース」、なかやまきんに君などに加えて、ダンス&ボーカルの「OSAKA 翔 GANGS」も参加した劇団「よしもと ザ・ブロードキャストショウ」を10月に立ち上げ、12月13日から16日まで、元劇団四季でPHYTHM OF LIFE代表の佐竹毅さんの演出で、同じく劇団四季出身のミュージカル俳優の堀米聰さんにも出演していただいて、共同プロデュース作品を上演することが出来ました。さらに、それに先立って、7月には未来の戦力を養成する「アクターズ&タレントスタジオ」を始めてもいたのです。
92年に梅田花月シアターとして再スタートして以来、こうして試行錯誤を重ねてきたわけですが、その背景には、大人から子供までをターゲットにしたメジャーなNGKと、86年から99年3月まで、若者に特化して人気を集めた心斎橋2丁目劇場、そして99年9月にNGKの向かいのYES NAMBAビルで新たなスタートを切った、「base よしもと」の存在がありました
86年5月16日にオープンした「心斎橋2丁目劇場」は、大崎君や中井君、竹中君が担当し、初日:ダウンタウンの「2丁目物語」、2日目:憂歌団の「2丁目ライブショー」、3日目:明石家さんま主演・演出の「SAMMA劇団」でスタートし、以降、ダウンタウンらの「お笑い探検隊」や87年から89年までMBSで放送した『4時ですよーだ』もあってブレイクし、ダウンタウンをはじめ、数多くのタレントを生み出しました。
90年代に入って、ダウンタウンらが東京へ本拠を移した後は、天然素材が担った時期もあったのですが、比企君や新田君が担当し、「2丁目エブリ亭」や「WACHACHA LIVE」、95年から始まったABC「すんげーBEST 10」で千原兄弟やジャリズムが台頭しました。
そして、99年9月に本拠をYES NAMBAビルへ移して、劇場名を「base よしもと」と改めた後は、新田君や雪だるまこと大木君が担当して、KTVの「紳助の人間マンダラ」企画でレコードデビューしたダンスユニット「WEST SIDE(ランディーズ・ロザン・キングコング)」のブレイクや、陣内智則・シャンプーハット・FUJIWARAなどが司会を務めるMBSの番組「?マジっすか!」などもあって、関西を中心に一大ブームを起こしつつあったのです。02年8月31日には、WTCのオープンエアスタジアムで開かれた「02 base SUMMER SMILE」には30,000人もの観客を集めました。私も大木君に誘われて参加したのですが、会場の人いきれに耐えかねて、早々に近くのハイアット・リージェンシーホテルに逃げ込んで、お茶を飲んだだけで立ち去った苦い記憶があります。
このように若者に特化した勢いのある「base よしもと」と、看板劇場となった「NGK」の間に挟まれて、何を目指すのか、試行錯誤は続きました。いっそ、落語専用劇場にでもすれば良かったのでしょうが、何せ急勾配の劇場とあってはそれもかないません。それなら、「NGK」や「base」のマイナー版を創るのではなく、「NGK」や「base」にい来ない人たちをターゲットにしてはどうかと考えたのです。
更に、表現の場として「rise-1」のバリューを上げるべく、10月から、「家庭教師のトライPrezents 第1回よしもとrize演劇祭 〜来たれ。エンタテインメントの宝石箱へ!〜」を開催することにしたのです。全国各地から203団体の応募があり、そのうち二次予選を突破した7劇団が覇を競いました。
井田國彦さんと劇団集団「よしもと ザ・ブロードキャストショウ」
「OSAKA 翔 GANGS」
佐竹毅さん
base よしもと
WEST SIDE
会場となったWBC オープン エア スタジアム
ハイアット・リージェンシーホテルOSAKA