2000年6月23日には、大阪商工会議所の国際会議ホールで講演をさせていただき、ご一緒させていただいたのが、100円ショップダイソーを経営する「大創産業」の矢野博丈社長でした。先に講演を終えて、客席でお話を伺い、訥々とした語り口でお話になった内容がとても素晴らしく、感動をかかえながら、控室に戻った私に、いきなり矢野社長が「一緒に写真撮ろう」カメラを取り出されたのです。
私より3歳上の矢野社長は、裕福な医師の父親のもとに8人兄弟の5男として広島で生まれ、医業に進む兄弟とは別に、中央大学理工学部に進み、学生結婚、奥さんの実家の稼業・ハマチの養殖業を継ぐも3年で倒産して夜逃げ、その後9回の転職を重ねて借金を返済し、1972年に雑貨の移動販売「矢野商店」を設立しました。スーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などで、商品の陳列・補充・会計を一人で行い、場所を移動しながら商売を続けたといいます。商品を100円均一にしたのは、翌日の営業ために、前の夜に奥さんと自宅で、商品ごとに違う値段表を貼り付ける、ラベリング作業をするのが大変で、それなら、いっそ「みんな100円にしよう」ということで始めたとおっしゃっていたように思います。結構、悔しい思いもされたようで、ある所で移動販売をしている時、子供が興味を持って商品を手に取っているのを見咎めた母親が、「こんなところに、ロクなもの置いてないから」と手を引いて去っていくのを見て、「品質のいいものを置かなきゃいけないと思った」ともおっしゃっていましたね。そのうえ、72年にはあろうことか、自宅と倉庫の火災事故にも遭われたのですから、まさに艱難辛苦の日々を過ごされていたのです。
そんな矢野さんに転機が訪れたのは、77年のことです。当時、商品の6割を卸していたダイエーから、中内オーナー命で、「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と通告されたのです。さてと、窮した矢野さんは「どうすれば、会社が潰れずに済むか?」と考えて、ダイエーの客が流れる所に100円ショップを作り、社名も「大創産業」と改め、法人化をしたのです。これが常設店舗による、今日の形態の100円ショップの始まりなのです。87年には、本格的に「100円ショップダイソー」の展開に着手し、バブルがはじけ、我が国が「失われた20年」と言われる長期不況に突入した90年代後半から急速に売り上げを伸ばし、今や国内に3150店、海外に1900店を数えるトップ企業になったのです。一方の「ダイエー」は、同時期に業績不振に陥り、結果イオングループの傘下に入ることになってしまいました。以降も矢野さんとのお付き合いは、続くのですが、また回を改めて、お話することにします。
私が載せていただいた、雑誌「AERA」が出たのは、この少し後の、7月10日だったと思います。「現代の肖像」という6ページの企画にしては、随分と時間を多く取られた気がします。朝山実さんのインタビューはオフィスで受けて、ほぼ事は足りたのですが、カメラマンの山本宗補さんの注文が、けっこう多岐にわたり、会社以外に、自宅や、講演先、その上、梅田のHEP FIVEの屋上に据えられた、赤い観覧車にまで乗せられました。当時は、明石海峡大橋から生駒山までが一望できるとあって、15分で500円という値段にもかかわらず、乗り待ちの客が絶えないほどの人気スポットではあったのですが、別に女性と一緒というわけでもなく、たった一人でカメラマンと向かい合うだけのことで、ろくに景色を楽しむこともできませんでした。また、別の日に夜のシーンも撮りたいということで、京都のお茶屋さんへ行ったことがあるのですが、そのシーンは結局、紙面に載ることはありませんでした。その時にかかったお金ですか?朝日新聞社さんからいただいた記憶はないのですが、そんなことより、このページに載せていただいたこと自体を有難く思わないといけないと、自らを戒めしました。それにしても、高くついた記憶だけは今となっても残ってはいますがね。
矢野博丈さんとツーショット
ダイソー 国内店
ダイソー オーストラリア店
「失われた20年」
今や国内に3150店、海外に1900店を数えるトップ企業です
AERA(2000年7月10日号)
HEP FIVE 屋上の赤い観覧車で
自宅や講演先にも