木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 東京の「ナショナルPR」という会社から「東京電力広報問題検討委員会」への参加を求められたのは6月7日のことでした。大仰なタイトルに、尻ごみをしたのですが、住まいが東京だということもあり、「ユーザー目線で発言していただければ!」という担当者の木部さんという女性のお誘いもあって、お受けすることにしたのですが、9月12日、内幸町の東電本社のすぐ近くにある、新橋第一ホテル・アネックスで開かれた、第1回の委員会へ行って、いきなり、引き受けるのではなかったと後悔をしました。

 委員会は、東電の桝本晃章常務を座長に、東大法学部の蒲島教授、東大社会学研究所の大沢教授、他に医師で評論家としてテレビにも出演されている米山公啓さん、ギャラクシー賞や文化庁芸術選奨など各賞の選考委員を務め、活字媒体をメインに、評論活動をされている麻生千晶さん等、私にとって全く馴染みのない方々ばかりだったのです。

 桝本さんは、主に広報を担当して来られた方だけあって、マスコミに登場されることもあり、併せて洒脱なお人柄で、ともすれば硬くなりがちな場を巧みにリードされていました。2時間ほどのミーティングが終わった後は、各々が軽食の用意されていた歓談の場に移り、都合3時間ほどを過ごすのですが、席に灰皿が用意されているのを見た私が、一息入れようとタバコに火をつけた途端、「私タバコが大嫌いなの!」という声が飛んできました。声の主は、予想した通り、麻生さんでした。まあ、逆らうのも大人気ないかと思い、室外へ出たのですが、その時に抱いた「ヤな感じ」は、任期が明ける2年後の7月17日までずーっと続きました。

 委員会は、その後もほぼ月1回ペースで行われ、スピーチの順も、真面目な東大教授のお二人から始まって、辛口の麻生さん、少し柔らかめの米山さん、そして私と、次第に固定化されてきたこともあって、置かれたポジションを理解した私は、更に柔らかさを目指すようにと心がけていました。翌01年の1月16日に開かれた委員会には、東電の荒木会長と南社長も参加されて、7月10日には、東電の方と共に、一カ所の原子力発電所としては世界最大の出力という、新潟県の「柏崎刈羽原子力発電所」や、「訓練センター」の見学というオプショナルツアーに参加させていただき、久しぶりに子供の頃の社会見学を思い出しました。本来、新潟県は東北電力の事業エリアなのですが、協定を結んで、一部を東北電力に送ることで、群馬〜山梨を経由して首都圏へ送電をしているとのことでした。

 発電所へ向かう前には、新幹線を降りた長岡市の「小嶋屋」さんで、魚沼が発祥の地と言われる、名物の「枌(へぎ」そば」を、皆といただきました。つなぎに「ふのり」という海草を使った蕎麦を、「へぎ」という器に盛るところから名付けられたそうで、「はごたえは うみのくさ やまのくさたちの いのちなり 小嶋屋のそば」と謳われた通り、コシのある蕎麦がおいしかったのを今でも覚えています。

 残念なことに、震度6強を記録した「新潟中越沖地震」が起きたのは、柏崎刈羽原子力発電所が06年4月に、原子力発電施設の運営管理では日本では初の、「ISO 9001(品質管理規格)」の国際認定を受けた翌年の7月のことでした。

 委員会の責任者を務められた桝本晃章さんは、その後、東電の副社長を務め、08年からは一般社団法人 日本動力協会の会長や、日経連の環境安全委員会のアドバイザーを務められているそうです。

 「えっ、麻生さんですか」、麻生さんは今もご健在で、秀作と評判をとった映画を、「かくして私の当作映画の評価は《並み》である」などと、世に阿(おもね)ない辛口の批評をされています。もしかしたら、「本当は愛すべき人なのかもしれない」と思うようになりました。私も大人になったということですかね。

東電本社

新橋 第一ホテルアネックスビル

桝本晃章さん

米山公啓さん

麻生千晶さん

 

小嶋屋の「へぎそば」

荒浜海岸から見た柏崎刈羽原発

 

 

 

HISTORY

第話

 2000年6月23日には、大阪商工会議所の国際会議ホールで講演をさせていただき、ご一緒させていただいたのが、100円ショップダイソーを経営する「大創産業」の矢野博丈社長でした。先に講演を終えて、客席でお話を伺い、訥々とした語り口でお話になった内容がとても素晴らしく、感動をかかえながら、控室に戻った私に、いきなり矢野社長が「一緒に写真撮ろう」カメラを取り出されたのです。

 私より3歳上の矢野社長は、裕福な医師の父親のもとに8人兄弟の5男として広島で生まれ、医業に進む兄弟とは別に、中央大学理工学部に進み、学生結婚、奥さんの実家の稼業・ハマチの養殖業を継ぐも3年で倒産して夜逃げ、その後9回の転職を重ねて借金を返済し、1972年に雑貨の移動販売「矢野商店」を設立しました。スーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などで、商品の陳列・補充・会計を一人で行い、場所を移動しながら商売を続けたといいます。商品を100円均一にしたのは、翌日の営業ために、前の夜に奥さんと自宅で、商品ごとに違う値段表を貼り付ける、ラベリング作業をするのが大変で、それなら、いっそ「みんな100円にしよう」ということで始めたとおっしゃっていたように思います。結構、悔しい思いもされたようで、ある所で移動販売をしている時、子供が興味を持って商品を手に取っているのを見咎めた母親が、「こんなところに、ロクなもの置いてないから」と手を引いて去っていくのを見て、「品質のいいものを置かなきゃいけないと思った」ともおっしゃっていましたね。そのうえ、72年にはあろうことか、自宅と倉庫の火災事故にも遭われたのですから、まさに艱難辛苦の日々を過ごされていたのです。

 そんな矢野さんに転機が訪れたのは、77年のことです。当時、商品の6割を卸していたダイエーから、中内オーナー命で、「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」と通告されたのです。さてと、窮した矢野さんは「どうすれば、会社が潰れずに済むか?」と考えて、ダイエーの客が流れる所に100円ショップを作り、社名も「大創産業」と改め、法人化をしたのです。これが常設店舗による、今日の形態の100円ショップの始まりなのです。87年には、本格的に「100円ショップダイソー」の展開に着手し、バブルがはじけ、我が国が「失われた20年」と言われる長期不況に突入した90年代後半から急速に売り上げを伸ばし、今や国内に3150店、海外に1900店を数えるトップ企業になったのです。一方の「ダイエー」は、同時期に業績不振に陥り、結果イオングループの傘下に入ることになってしまいました。以降も矢野さんとのお付き合いは、続くのですが、また回を改めて、お話することにします。

 私が載せていただいた、雑誌「AERA」が出たのは、この少し後の、7月10日だったと思います。「現代の肖像」という6ページの企画にしては、随分と時間を多く取られた気がします。朝山実さんのインタビューはオフィスで受けて、ほぼ事は足りたのですが、カメラマンの山本宗補さんの注文が、けっこう多岐にわたり、会社以外に、自宅や、講演先、その上、梅田のHEP FIVEの屋上に据えられた、赤い観覧車にまで乗せられました。当時は、明石海峡大橋から生駒山までが一望できるとあって、15分で500円という値段にもかかわらず、乗り待ちの客が絶えないほどの人気スポットではあったのですが、別に女性と一緒というわけでもなく、たった一人でカメラマンと向かい合うだけのことで、ろくに景色を楽しむこともできませんでした。また、別の日に夜のシーンも撮りたいということで、京都のお茶屋さんへ行ったことがあるのですが、そのシーンは結局、紙面に載ることはありませんでした。その時にかかったお金ですか?朝日新聞社さんからいただいた記憶はないのですが、そんなことより、このページに載せていただいたこと自体を有難く思わないといけないと、自らを戒めしました。それにしても、高くついた記憶だけは今となっても残ってはいますがね。

矢野博丈さんとツーショット

 

 

 

 

 

ダイソー 国内店

ダイソー オーストラリア店

「失われた20年」

今や国内に3150店、海外に1900店を数えるトップ企業です

AERA(2000年7月10日号)

HEP FIVE 屋上の赤い観覧車で

自宅や講演先にも

 

HISTORY

第話

 9月21日には、一柳良雄さんから声を掛けていただいて、青山一丁目の近くにある「シティクラブ・オブ 東京」へ行きました。カナダ大使館の地下にある高級会員制の倶楽部で、到底私などが行ける場所ではなかったのですが、ほかならぬ一柳さんからの依頼とあって、お引き受けしたのです。

 一柳さんは八尾高から東大、そして通産省へ進まれた方で、宮沢喜一・田中角栄というおふたりの通産大臣の秘書を務められ、ハーバード大学のケネディスクールへ留学、IEA(国際エネルギー機関)に課長としてパリに赴任されるなど、主にエネルギー畑を歩まれ、95年に機械情報産業局次長を最後に退官されていました。私と同じ1946年の戌年生まれ(とはいっても、1月生まれの一柳さんは、5月生まれの私より学年は上でした)、関西ご出身という以外、およそ私などとは接点の生まれようもない方でした。

 ご縁が出来たのは、たしか99年の夏ごろに、ソフトウェアのサポート会社を経営されていた辻阪京子さんからのお電話があり、その辻阪さんが伴って連れて来られたのが、一柳さんだったというわけです。多分、一柳さんが93年に近畿通産局長を務められた頃に、おふたりの接点が出来たのだとは思いますが、お話は、一柳さんが岩谷産業の牧野明次社長と共に、チャレンジ精神を持つベンチャー企業を支援する「ベンチャー・コミュニティ」という組織を立ち上げるので、協力をして欲しいとのことでした。主宰は一柳さんが担い、辻阪さんが世話人、私は牧野社長や、子供服・ミキハウスの三起商行・木村皓一社長、お好み焼き・千房の中井政嗣社長、エンゼル証券の細川信義社長、大阪大学大学院の白川功教授らと共に、無報酬で、たしかアドバイザーを務めてほしいとのことでした。そんな立派な方々に混じって、自分が何かをできるとも思えなかったのですが、「大阪を元気に!」ということでは何某かの貢献は出来るかなと思って、お受けをすることにしたのです。

 11月27日には、午後3時から梅田のリクルートビルで、アスキーの西和彦取締役をスピーカーに招いた第一回目の会合が開かれました。2000年2月14日には、一柳さんを紹介すべく、林社長と共に北新地の「神留」で食事を共にしました。私が店を選んだこともあって、当然後日に請求書が来るものだと思っていたのですが、いつまでたっても来ないので、問い合わせると、「一柳さんにお支払いいただきました」とのこと、こちらがセッティングしたにもかかわらず「申し訳ないな」とは思ったのですが、いつしか失念していて、4月20日、6回目のベンチャーコミュニティで、私がスピーカーを務めた時に、前振りの中で、「招待されて行ったのに、勘定を払わせるなんて、さすがにケチな吉本だと思った」と紹介されるのを聞いて「あ、やっぱり、あの日のことを忘れないで、まだ怒ってたんだ!」と思った、苦い記憶があります。

 招かれたのは、当時一柳さんが、経済ジャーナリストの片山修さんと立ち上げられていた「一片塾」という会での講演のためでした。片山さんは明治大学を出られた後、名古屋タイムスの記者をされ、フリーランスのジャーナリストとして活躍されていた方で、「トヨタの方式」や「ソニーの法則」(共に小学館刊)や中央公論や文芸春秋、週刊エコノミストなどにコラムを持たれて、自動車業界や電機業界の企業経営論では日本の第一人者と言われた方でした。そんなおふたりが主宰される会とあって、当然お越しになる方も、大企業の社長・役員クラスが多かったのですが、別に大して講演料をいただいているわけでもなく、「ダメだったら、呼んだ方の責任だ」と腹を括ってお話させていただきました。終わって、何人かの方と名刺交換をさせていただいたのですが、その中のおひとりが、当時JR東日本の代表取締役副社長 事業創造本部長をされていた、細谷英二さんだったのです。

一柳良雄さん

シティクラブ・オブ 東京

辻阪京子さん

岩谷産業 牧野明次 社長

ベンチャーコミュニティー5周年のゲストは塩川正十郎さんでした

本のオビにも・・・

私もオビに

千房 中井政嗣 社長

北新地・神留(かんとめ)

経済ジャーナリスト 片山修さん

JR東日本 副社長 細谷英二さん

HISTORY

第話

 細谷英二さんは、熊本高校から東大法学部を経て、68年に国鉄へ入り、国鉄改革3人組といわれた井出正敬・松田昌士・葛西敬之さんたちをサポートして、国鉄を分割民営化に導いた立役者のお一人でした。その後93年に取締役、96年に常務と順調に歩みを進まれ、この年2000年6月に代表取締役副社長兼事業創造本部長として、自動改札やビューカードの導入、山形新幹線、成田エクスプレス、駅ナカビジネスなどを手掛けられた人なのです。そんな方に、私ごときの話が響くわけもなかったのですが、笑顔でフランクにご挨拶をいただいて、恐縮したのを覚えています。この時は、まさか03年に、再びお目にかかることになるとは思ってもいませんでした。

 片山修さんには02年12月18日、客員教授を務められていた学習院女子大学へお招きをいただき、講義をさせていただきました。たしか、新宿区の戸山にあり、1887年に設立された華族女学校を前身とするだけあって、卒業生には、女性皇族の他に、犬飼智子さんや津村節子さんなどの女流作家の名前も見受けられました。4年制の女子大になったのはまだ3・4年前とのことで、こじんまりとしたキャンパスを「これが学習院か!」とキョロキョロしながら歩いていると、行き交う女学生さんたちから、「ごきげんよう!」と優雅に声を掛けていただき、同じ「ごきげんよう!」という言葉でも、仁鶴さんの声とは随分違うものだと感心しましたね。

 大学つながりということで言うと、2000年11月3日には母校の同志社大学から依頼を受けて、創立125周年の「ホームカミングデー」で記念講演をすることになりました。同窓生や先輩・後輩・恩師と旧交を温める「ホームカミングデー」はアメリカではポピュラーなイベントではあったのですが、当時日本では、まだあまり行われていなかったように思います。当時は週に1・2日しか東京の自宅に帰らなかったこともあり、妻から「もっと、ホームカミング!」と言われるのが恐ろしくて、内緒にしたまま参加することにしました。場所は中国の「大学ノ道ハ明徳ヲ明ラカニスルニ在リ」という古典から付けられたという明徳館の21番教室。何せ母校を訪ねるのは、卒業して以来の31年ぶりとあって、学帽を被って楽し気に歩くOB達の間を縫いつつ迷いながら、何とかたどり着くことが出来ました。

 ほぼ満員の階段教室での講演を終えて、ふと館内を見渡すと、懐かしい顔が目に入りました。同じ八田ゼミで学び、一時期お付き合いをさせていただいていた山下三穂子さんと田中保君でした。山下さんは南日本放送を辞めた後、京都のKBSにアナウンサーとして入り、同じ職場の制作マンと一旦結ばれたものの、その後離婚を経て再婚、田中君は父の会社を継いで二代目の社長と、互いの境遇は変わりましたが、私が誘った先斗町「一粒庵」での歓談はいつまでも続きました。翌年からこのホームカミングデーに合わせて同窓会を開こうということになり、幹事役をこの田中君と山下さんが務めてくれていたのですが、この後何年か経て急逝してしまいました。そうそう、たまには京都を離れようということになり、09年には日本海テレビの常務を務めていた四宮昭彦君のアレンジで、山陰最古の温泉と言われる鳥取県の岩井温泉へ出かけたこともありました。さすがにこの会は、いつもより7人と少人数でしたが、江戸時代創業の老舗・岩井屋さんの趣はまた格別のものがありました。

 そうそう、翌朝宿を立つべく階下のロビーへ降りると、何と正司歌江さんに遭遇したのです。「ご無沙汰しております」とご挨拶をして、「近くで公演があるから前泊させてもらった」とは伺ったのですが、まさかここでお会いするとは思いもしなかった私の背中に、たらーっと冷や汗が走ったのを憶えています。何せ、「かしまし娘」の歌江師匠と言えば、西川きよしさんが千里丘へ転居された際、誰かが不用意に「師匠のご自宅は、西川さんちの裏ですよね」と聞いた際に、「私の家が表で、あちらが裏です!」ときっぱりとダメ出しをされた、怖いお方だったのですから。

元は華族女学校でした

これはフジテレビの番組

食堂にはこんなメニューもあるとか

明徳館

岩井屋

正司歌江 師匠

HISTORY

第話

 もちろん、その間にも変わらず本業である仕事もしていました。1月20日には、MBSで「八木治郎ショー・いい朝8時」のディレクターや、「ワイドYOU」のプロデューサーをされ、94年に退社された後は、浄土真宗本願寺派「称名寺」の住職を務められていた本多睦朗さんと、お寺とエンターテインメントを結ぶ「Terra Sunプロジェクト」を立ち上げました。単に「寺さん」とするより、「Terra(地球)Sun(太陽)」にして、地球を太陽が照らすように、輝くものになればという意味を込めてみたのです。

 もともと、仏や神の功徳を称えながら信仰の道を説くという建前のもとで、芸能が演じられていたことを考えれば、双方の親和性は高いと言えますし、何より宗派を超えれば、全国に、コンビニの数を凌ぐ7万7000ものコミュニティの拠点があるというのが魅力でした。お寺を活性化できれば地域も活性化できる。33万8000人おられる僧侶を活性化するためにbouzu.comというアドレスを取得すれば?と夢は広がりました。

 7月29日には、日本最大のオートバイレース、「鈴鹿8耐」の前夜祭を見るために鈴鹿サーキットへ出かけました。当時、人口14万人の鈴鹿市にレース当日16万人、大会期間中に36万8000人も集める一大モータースポーツのイベントで、「レース・ライダー世界一決定戦」とさえ言われていました。もっとも近年は、海外グランプリとの重複や、過酷さによる消耗を回避する海外ライダー達の減少もあって、観客動員数も減少気味だそうですが、私が見に行った2000年は、ちょうど絶頂期にあって、「TRF」がヘリコプターを使った演出で前夜祭を盛り上げ、「キャンギャル・オン・ステージ」を行うなど、最高に盛り上がった年でもあったのです。

 島田紳助さんが、千石清一さんをモデルに描いた「風よ、鈴鹿へ」を原作に、86年には、テレビ大阪や日映エージェンシー、ディレクターズカンパニーと共に吉本が映画化した「風、スローダウン」や、88年11月にTBSで、金子成人さんの脚本、近藤邦勝さんの演出で、川谷拓三さんが主演されたドラマが放送されたこともあって、「8耐」を生で見たかったのは事実ですが、それ以上に、私の興味を引いたのが、前夜祭のステージで繰り広げられるTRFのパフォーマンスだったのです。TRFのステージは、「Tetsuya Komuro Rave Factory」という名前の通りダンスユニットを念頭に結成されただけあって、なかなか見応えのあるものでした。

 鈴鹿サーキットホテルに1泊して、翌日は8耐の本番だったのですが、体力の限界や、次の仕事の都合もあり、私は半分の4耐ほどで帰阪することにしました。

 この後すぐの8月3日には、東京のクロックワークスという映画配給会社の遊佐和彦さんから、タイ映画の共同配給の話が持ち込まれました。最初は「タイの映画なんて」と思っていたのですが、よくお話を聞くと、1996年、タイの国体に出た男子バレー・ボール・トーナメントに出た史上最強チームの話で、チームのニックネームがSATLEE LEK(サトリー・レック:鋼鉄の淑女たち)という元男の子だったという実話で、タイで史上2位の、歴史的大ヒットを飛ばした作品であることが分かりました。監督は、CM界から転身して、この映画が初作品となる、ヨンヨット・トンコン・トーンさん、斎太郎節の掛け声「エンヤトット」を思わせるような名前の人でした。

 総経費の半分をクロックワークスが持ち、四分の一を日本テレビ、我が社には後の四分の一持ってくれないかというご依頼でした。「コメディであること」「チームの活躍を見た人がすべてハッピーになれること」などを勘案して、吉本が翻訳監修をするということを条件に、東宝東和で試写を見た上で、出資をする事に決めました。タイトルはSATLEE LEKでは分かり難いということで、週刊マーガレットの人気漫画「アタックNo.1」の原作者・浦野千鶴子さんの承諾を得た上で、「アタック・ナンバー・ファイブ」と改め、翌01年4月14日から上映することになりました。

テキスト

鈴鹿8耐

前夜祭には花火も

90年がピークでした

原作となった「風よ、鈴鹿へ」

 

TBSでドラマ化された「風よ、鈴鹿へ」

映画化された「風、スローダウン」

 

 

 

 

 

左が、ヨンヨット・トンコン・トーン監督

HISTORY

第話

 12月10日は、ANB(テレビ朝日)「ニュースステーション」の「最後の晩餐」というコーナーの収録のために、自宅から歩いて6,7分の所にある高輪プリンスホテルの貴賓館「孔雀」へ出かけました。「TVスクランブル」の企画会議と並行して、密かに久米さんとオフィス・トゥー・ワン(以下OTO)のスタッフとの間で練られたこの番組企画は、次第に月曜から金曜までのプライムタイムに、1時間ほどの帯番組を設けるという壮大な構想に膨らんでいったのです。当時は「ニュースで視聴率は取れない」と言われた時代で、とても実現しないだろうと思われていたのですが、NHKの「NC9」の成功を見て、「これを民放でもやれないか」と考えていた電通の桂田光喜ラ・テ局長と、六本木・アークヒルズへの本社移転を控えて大型目玉企画を模索していた、ANBの小田久栄門報道局次長らの意向が一致し、CM枠を電通が買い切り、ANBの田代喜久雄社長の決断もあって、85年10月7日に、ANBとOTOの共同製作という形でスタートをすることになったのです。チーフ・プロデューサーにはANBの早河洋さん、プロデューサーには「TVスクランブル」でもコンビを組んだOTOの高村裕さんが就きました。

 メインキャスターに久米宏さん、サブキャスターにANBアナウンサーの小宮悦子さん、コメンテーターに朝日新聞論説委員の小林一喜さんという布陣でスタートした「ニュースステーション」でしたが、決して最初からうまくいったわけではありませんでした。放送初日の視聴率は9.1%、初日の祝儀が入ってこの数字では、無残なものと言わざるを得ません。連日深夜までスタッフの反省会は続いたのですが、その後も一向に視聴率が上がらず、スタッフが廊下の端を歩くような苦闘の日々が続きました。しかし、86年1月28日、アメリカで起こった「スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故」あたりから、ニュースを正確に伝えようとするANB側と、いかにわかりやすく面白く伝えるかを重視するOTO側の混成スタッフの意識が一つになり、2月25日の、マルコス大統領亡命後、コラソン・アキノさんが大統領になるきっかけを作った、フィリピンの「エドゥサ革命(黄色革命)」を報じた回には、視聴率19.3%を稼ぐようになったのです。緊迫した現地の状況を伝えたのは、当時リポーターとして派遣されていた安藤優子さんでした。以降20%を超えることもしばしば、2004年3月26日に終了するまで、全4795回で14.4%もの平均視聴率を稼ぐ人気番組となったのです。

 「最後の晩餐」は、時々特集として放送され、久米さんがインタビューの終わりにゲストに向かって、「もし明日、あなたが死ぬとしたら、あなたが最後に食べるものは何にしますか?」と尋ねるコーナー企画でした。過去に美輪明宏さんや大橋巨泉さん、ジャイアント馬場さん、樹木希林さん、山口小夜子さん等、錚々たる方々が出演されていたことを知っていれば、当然辞退したのですが、そんなこととは露知らず、「料理天国の頃にお目にかかっていたこともあって、声を掛けていただいた」と軽く考え、「さて、何を食べたいと答えようかな?」ということばかりを考えていたのです。

 収録場所へ出向くと、既に久米さんはもう来られていて、まるで「料理天国」を収録していた、北の丸の科学技術館の楽屋で会話を交わした時のような雰囲気のまま、進行をリードしていただきました。インタビューをしていただいた内容も、いつ放送されたのかも全く憶えていないのですが、「さて最後に何を食べますか?」と聞かれた時に、大阪の実家のある楠葉駅前モールの地下で、母と妻子と共に、真夏に汗をかきつつ明石焼きを食べていたら、偶然背面にかき氷屋さんがあって、その後にミルク金時を食べて味わった至福の体験が忘れられず、「明石焼きとミルク金時」と答えたのは憶えています。放送予定日が当初の予定から変更になったのは聞いたのですが、もしかしたら、余りにくだらなくて放送されなかったのかもしれませんね。いえいえ、翌2001年の3月2日にはちゃんと放送をしていただきましたよ。

久米さん、こんなに若かったんです

左から、小宮悦子さん、久米宏さん、小林一喜さん

「最後の晩餐」

安藤優子さん

早河洋さん(現・ANB会長)

高村裕さん(現・株式会社クリエーターズ社長)

エドゥサ革命

明石焼

明石焼きとたこ焼きの違い

ミルク金時

HISTORY

第話

 「ニュースステーション」の人気を反映して、89年4月には久米さんが雑誌ダカーポの「好きな文化人」の1位に選ばれ、首都圏の大学生アンケートでも、久米さんと小宮さんが男女それぞれの「好きなキャスター」1位に選ばれるようになりました。

 当初テレビニュースでは、日本のテレビ局が新聞社を大株主にスタートしたこともあって、新聞の活字を読むスタイルが取られ、映像はバックミュージックのような扱いでしかなかったのです。しかも、ニュース番組はスポンサーが付きにくく、そのくせ、ただ金だけはかかるという状態が80年代まで続いていたのです。そのためプライムタイムの中で、ニュースはNHKだけがやっていて、民放ではニュースは3の次、4の次といった扱いで、定時のニュースはNHK、民放はその前にたった5分程度のニュースを流すだけだったのです。

 ところが、「ニュースステーション」が成功して、ニュースが「商品」になることが分かり、それ以降、各テレビ局がこぞって報道番組の強化に乗り出し「報道の時代」への潮流をつくったことを考えれば、まさに、テレビ界にとってエポックメーキングな出来事であったと言えるのではないでしょうか。

 番組を無事軌道に乗せた小田久栄門さんは、翌年、報道局次長から編成局長となり、田原総一郎さんをメインキャスターに起用して87年4月26日に、月1回、最終土曜の午前1時~6時に、論客たちによる白熱闘論番組の「朝まで生テレビ」を立ち上げました。プロデューサーは日下雄一さん。第1回のテーマは「激論!中曽根政治の功罪」。たしか私も、スタート時に、日下さんから西川のりおさんの出演依頼を受けたと憶えがありますが、実現しなかったように思います。視聴率は1.3%から始まり、88年大晦日には、7.5%を記録するようになりました。93年の総選挙では、長く戦後日本の政治を支配した「55年体制」が崩壊し、細川政権が誕生した時には、「ニュースステーション」の久米さんと、「サンデープロジェクト」・「朝まで生テレビ」の田原さんの名前を取って、「久米・田原連立政権」と呼ばれたほどの影響力を持つようになっていたのです。

 振り返ってみれば、「オレたちひょうきん族」がバラエティの概念を変え、多くのタレントを輩出した一方で、「ニュースステーション」や「サンデープロジェクト」・「朝まで生テレビ」など、硬派な番組が視聴者の心を掴みつつあったのが、80年から90年にかけてのテレビ界だったような気がします。

 久米さんは、この時代を指して「時代の空気もあったのだろう。1970年代の2度の石油ショックを経て、日本の高度成長は終わり、80年代に入って産業は、それまでの、鉄鋼や自動車といった『重厚長大』からハイテクの『軽薄短小』にシフトする。社会は消費をひたすら謳歌するバブル景気に向かっていた。微熱を帯びて浮かれたような気分と社会がシンクロしたともいえる。」とおしゃっています。

 ニュースステーションは、その後95年1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起きた頃の26.7%をピークに、減速する景気と軌を一にするかのように、視聴率も徐々に低下していくようになるのですが、久米さんの意向もあり2004年3月、ついに18年半の歴史に幕を閉じることになりました。久米さんの後、4月5日からは、「報道ステーション」と名前を変え、古館伊知郎さんをキャスターに12年間番組は続き、平均視聴率13.2%をあげましたが、番組の与えたインパクトは、「ニュースステーション」に遠く及ばなかったように思います。

 

小田久栄門さん

日下雄一さん

 

田原総一朗さん

 

 

株価推移

HISTORY

第話

 NHKで「プロジェクトX」やBSプレミアムの「アナザーストーリーズ」をプロデュースされた久保健一さんは、「プロジェクトXを製作していた時、日本を支えてきたハードのインフラは1960年代、70年代に作られたと実感しました。一方で、ソフト、いわゆる文化は、その後の80年代につくられて、それが今につながっているような気がしています。必要不可欠なものが手に入った後、そういった文化の礎が生まれたのは、必然だったのでしょう」とおっしゃっています。

 久保さんのプロデュースされた「時効スクープ~今だから聞けた」をモチーフとする「アナザーストーリーズ」の「80年代CM黄金期、3人の天才は何を見通したか」というこの回は、「幕開けとなる1980年1月1日、沢田研二のシングルレコード『TOKIO』が発売された。作詞をしたのは、コピーライターの糸井重里、B面の『I am I』の作詞は、やはりコピーライターの仲畑貴志だった」というナレーションに始まり、82年に糸井さんが西武百貨店の「おいしい生活」を、仲畑さんがTOTOの「おしりだって、洗って欲しい」というコピーを創られ、「耳に残るコピーを持つCM新時代」を開いた先駆者として紹介します。加えてもうお一人、大阪にあって、あくまでも低い目線で、みんなの「面白い」に火をつけ、笑いの共感の中で、85・6年の金鳥の「カ・カ・カ・カ・掛布さん」や「亭主元気で留守がいい」など、共感を呼ぶCMを創り続けておられた堀井博次さんを加えた3人をフィーチャーしたものでした。

 たしかに、64年には東京オリンピックが開催され、それを機に東海道新幹線や東京モノレールが開通しました。黒部第4ダムが開通したのも63年のことでした。そして70年には大阪で万博が開かれ、6422万人の入場者を記録。これを契機として、動く歩道やエアドーム、無線LAN、ワイヤレスフォン、アストロビジョン、電気自動車、電波時計ができ、ファミレス、KFC、缶コーヒーが普及し、リニアモーターカー構想が打ち出されたのもこの頃でした。

 音楽評論家の平岡正明さんは、82年に出された著書の「紳助・竜介ら『漫才ニューウェーブ』~ロック感覚のおもしろいやつら~」というコラムの中で、漫才ニューウェーブの先駆は、やすし・きよしが若く、スピードで勝負ができることに始まり、暴走族、不良少年らの落ちこぼれを支持層にした、スピード、差別、反知性、欲望の同時浮上がニューウェーブ漫才だと思う。そしてこれらの方向を鮮明にしたものこそ、タモリだと思っている。不条理なのだ。」と書かれていますし、映画テレビ・ドラマ評論家の樋口尚文さんは「ポストヌーヴェルヴァーグ」の中で、「80年代は絶望的に蔓延したA級の病の中で、ごくごく一部突出した才能たちが活躍を見せ始めたB級の時代である」として、「A級は人畜無害だがスクエアで大勢順応的で、臆面もないところがあって、面白さに欠ける。B級はいかがわしい、イージーでアバウトな設定、ビョーキ的ノリといくらでも欠点はあるが、面白さは抜群で、一見軽薄なノリだが、それでいて含羞も持ち合わせている。」と書かれています。

 確かに80年代にメジャー化した、タモリさん、たけしさん、さんまさんの「BIG 3」を始め、鶴瓶さんや所ジョージさんは今も健在です。美空ひばりさんや、山口百恵さんを凌ぐ存在感のある歌手も現れていませんし、NHKの「紅白歌合戦」も、84年の70%を最後に、今や視聴率は30%台にまで低下しています。同じNHKの「朝ドラ」も、最高視聴率は、83年に「おしん」が記録をした62.9%、「大河ドラマ」は87年に渡辺謙さんが主演した、「独眼竜正宗」の39.7%、「漫才番組」も、80年12月30日に銀座・博品館から生放送された「THE MANZAI」の32.6%を抜くものはいまだ出てはいません。野球界でも、王貞治さんが80年に打ち立てた、不滅のホームラン記録の868本が未だ破られてはいないことを思えば、久保さんのおっしゃったことは正鵠を射たものであると言えるのかもしれません。

久保健一さん

 

 

堀井博次さん

仲畑貴志さん

 

A面の『トキオッ』 B面の『I am I』

 

東京オリンピック

大阪万博

 

王貞治さん

金鳥の「カ・カ・カ・カ・掛布さん」

HISTORY

第話

 今にして思えば、そんな80年代から90年代を、吉本興業にいて過ごすことが出来たのは幸せだったという他ありません。酒も飲めず、ゴルフもせず、お世辞も言えない、およそ社交性のない異端児の自分がここまで何とかやってこれたのは、ひとえに吉本興業という会社の持つ度量の広さのお陰だったのだと思います。「とりあえず3年はがんばろう」と思って入って、もう既に31年が経っていました。 

 2001年4月には、東京本社では横澤さんが専務に昇格されて東京本社代表に、新たに取締役になった大崎君と清水取締役が支え、大阪本社には私がいて、事業部門を取締役秘書室長から転身した谷垣さん、制作部門をこれも新たに取締役に昇格した吉野さんが担い、総務・経理部門を新たに常務に昇格された平戸さんが担当されることになりました。そして、長く中邨会長を支えて来られていた冨井専務は、子会社のITS社長として転出されることになったのです。

 しばらく時間が経って、冨井さんが「これからもよろしく」と私の部屋へご挨拶に見えた時、それまで抱いていた複雑な感情はどこかへ吹き飛んで、「こちらこそよろしくお願いします」と言葉を返したものの、「もし自分が、いつか冨井さんのような立場になった時、こんな後輩にきちっとした挨拶ができるだろうか?」と複雑な思いを抱いたのを憶えています。

 ともあれ、林社長の新体制になって、東京シフトが加速し、新機軸が次々に打ち出される中、大阪本社としては、同じ川の上流にイワナ、下流にアマゴが棲み分けされているような、地理上のテリトリーで分けるのではなく、互いのオリジナリティによる棲み分けを図るべきだと思ったのです。でないと、役割の固定化や、社員の棲み分けが進んで、組織全体のダイナミズムが失われる可能性があると考えたからなのです。ただ、活性化していない組織では、互いのテリトリーは接触せず、離れていて、維持するためのコンフリクトは生まれないのですが、活性化している組織では、テリトリーが時として重なる場合もあって、常に互いの緊張感が生まれます。

 そのためにも、東京を預かっておられる横澤専務とのコミュニケーションは欠かせないものになりました。

 まず、タレントばかりではなく、まだ知られていないけれど、これから大いに飛躍するであろう気鋭の企業人を売り出すべく、株式会社「ちゃんと」の岡田賢一郎社長に目をつけ、2000年12月に対談をして、翌01年の8月に、吉本音楽出版から「吉本vsちゃんと」というタイトルで書籍化をしました。岡田さんは高校時代から11年間お世話になった韓国料理店を辞め、93年に心斎橋に「ちゃんと1号店」をオープン。従来の料理に新しい素材や技法を取り入れた創作料理が評判を呼び、関西で注目を浴びるようになります。その後95年10月、「日経レストランメニューグランプリ」で創作した「キムチの王様」が大賞を受賞、株式会社化して、97年にイベント・プロデューサーの井上盛夫さんを副社長に迎え、ヌーベルシノア「熱烈食堂」、斬新和食「橙家」、世界発信のレストランをコンセプトにした「Ken‘z Dining」など、様々な業態のレストランを全国に展開、私がお会いした2000年に本社機能を東京の西麻布に移した後、香港、ニューヨーク、ハワイにも店を構えました。ピーク時には従業員2000名、80億円を売り上げるまでになったのです。

 中でも私が感心したのは、小学生の頃、いつも通信簿に「落ち着きがない」や「協調性がない」と書かれ、普通なら落ち込むところですが、「落ち着きがないということは、行動が素早いということ、協調性がないということは、独創性があるということで、むしろプラスに受け止めた」というエピソードでした。「栴檀は双葉より芳し」という言葉の通り、名を成す人はガキンチョの頃から違うものだと思わされましたね。野球で鳥取県の倉吉北高に特待生として招かれたとも言いますから、もし先輩たちによる暴力事件がなく、甲子園出場を果たしていたら、プロ野球にスカウトされて活躍していたかもしれませんね。

 

岡田賢一郎さんとの対談風景

 

 

岡田賢一郎さん

外食界の風雲児と紹介されました

 

「CHANTO NEWYORK」

「ちゃんと」

「橙家」

「Ken‘z Dining」

「熱烈食堂」

「ちゃんと家ダイニング」

倉吉北高校野球部

HISTORY

第話

 岡田賢一郎さんに続く、出版企画の第2弾は、2002年8月、前回と同様に吉本音楽出版から出した「チャレンジド~ナミねえとプロップな仲間たち~」という写真集でした。岡田さんといい、竹中ナミさんといい、どうも私には元不良だった人に魅力を感じる癖があるようです。

 神戸で生まれたナミさんは家出を繰り返し、高校を退学、家出をして16歳で男性と同棲を始めますが、やがて授かった子供が障害児であったところから、独学で障害児の医療や福祉教育を学び、91年に障害児の自立支援をすべく、草の根グループ「プロップ・ステーション」を立ち上げ、98年に厚生大臣認可の社会福祉法人となり、理事長を務め、「差障り」や「害」などマイナスの要因が重なる「障害」という呼び名を社会から無くし、障害を持つ人を「神様によって、挑戦する機会を与えられた人(チャレンジド)として支え(PROP)、健常者が障がい者を弱者視せず、障がい者が支援を一方的に甘受しないで、個々が気力や体力にかなう形で就労をして自立し、共に対等に支え合える社会を作ろうという高邁な理想のもとに活動されていました。

 写真集は「プロップ・ステーション」を舞台に、難病を抱えながら絵本作家としてデビューした、くぼえりさんや、手足が使えず足でパソコン講師を務める岡本敏美さんなど、障害を抱えながら元気に活動している人たちの日常を、カメラマンの牧田清さんが1年がかりで撮影したもので、巻末に載るナミさんと私の対談も4月15日に済ませました。

 竹中ナミさんはその後08年にバンドを結成して、ボーカルとして関西圏でライブ活動を始め、09年には在日本アメリカ大使館から「勇気ある女性」を受賞し、さらに10年からはNHKの経営委員を務めるなど、現在も活躍されています。

 いっぽう「飲食業界のレジェンド」と呼ばれた岡田賢一郎さんは、井上盛夫さんと袂を分かった02年をピークに徐々に勢いを失っていった06年頃に、株式会社「ちゃんと」の経営から一旦距離を置き、表舞台から消えて大阪に帰っていたのですが、11年に株式会社「ちゃんと」が民事再生法適用申請をした後、嘗ての盟友である井上盛夫さんの熱心な誘いもあり、西麻布の和牛レストラン「THE INNOCENT CARVERY」で、「僕は現場が大好きなんです」と、今も看板シェフを務めているそうです。店名の「INNOCENT」は、日本語で「無邪気な」を表すと同時に、「イノ(井上)さんと」をかけて、「肉を切り分けてくれるレストラン」をいう「CARVERY」を足して名付けられたと言います。いずれにしても、この企画に取り上げさせていただいたお二方が、今も輝いて、活躍されているのは喜ばしい限りです。

 今一つ、関西から才能を世に出すために考えたのは、「劇団新感線」が活動の場を東京へ移して以降、停滞の一途を辿っていた関西の小劇団の動向でした。もちろんこれは、私だけの発想ではなく、シネマワイズでもお世話になったオフィス100%の尾中さんや湊さん、新しくうめだ花月を担当することになった菅君や猪瀬典子さんのアイデアを取り入れてのことでした。

 80年に、大阪芸術大学芸術学科の4回生を中心に結成された劇団新感線は、つかこうへいさんのコピー劇団として、関西学生演劇ブームの中心的存在となったのですが、84年に、つか作品と決別をして、ハードロックやヘヴィメタルにのせたオリジナル作品に転換をして、88年の「星の忍者―風雲乱世篇―」で念願の東京へ進出、照明・音響を駆使したド派手な舞台は、小劇場界では他に類がなく、熱狂的なファンを獲得していたのです。

 スター劇団に去られた関西小演劇界は、再びマイナーな状況に置かれ、身内しか見に来ない、ジャンルとして認識すらもされていないような苦境の中にあったのです。

 

 

 

ナミねぇの履歴

 

 

 

ボーカルとしても活躍されています

アメリカ合衆国 臨時代理大使ジェームス・ズムワルト氏から「勇気ある女性」賞を授与されました。

 

「THE INNOCENT CARVERY」

 

キッチンの岡田シェフ

猪瀬典子さん