10月29日にはプロレスラーとして、ウルティモ・ドラゴンさん、ザ・グレート・サスケさんと共に、ジャパニーズ・ルチャの立役者とされていたスペル・デルフィンさんにも会いました。デルフィンさんは、メキシコでの修業を経た後、93年にザ・グレート・サスケさんと共に、新団体「みちのくプロレス」を旗揚げしたのですが、方針の違いもあって99年3月に袂を分かち、生まれ故郷の大阪に戻って、4月29日に「なみはやドーム」で旗揚げした新団体「大阪プロレス」を立ち上げたばかりでした。
大阪プロレスには、「くいしんぼう仮面」や「えべっさん」など大阪名物モチーフにした覆面レスラーが多く、コメディ色の強い試合を行う一方、ルチャリブレ(メキシカンプロレス)の要素を取り入れたスピーディなプロレス技の応酬をウリにしていて、「老若男女」皆が楽しめるようにと、「流血」や「凶器の使用」が禁止されていました。どこかで、デルフィンさんが「プロレス界の吉本興業を目指している」と話されていたのを耳にして、「それなら吉本がお手伝をいしよう」と思い、テレビ収録やイベント興行のない時に、NGKホールを試合会場として提供することにしたのです。JDが「戦うタカラヅカ」を目指すなら、大阪プロレスは「戦うヨシモト」を目指そうというのですから、組まない手はないと思ったのです。
その後、大阪プロレスは、大阪市電天王寺車庫跡に造られた都市型立体遊園地「フェスティバル・ゲート」に、本拠地のデルフィン・アリーナを構えることになるのですが、新団体を立ち上げたばかりのこの頃は、まだレギュラーの試合会場がなかったのです。後年、私が吉本を辞めた後、北新地のクラブで見知らぬ男性から挨拶をされ、「?」と戸惑っていると、耳元で「デルフィンです」と囁かれたことがあります。そう、私はこの時になって、初めて彼の素顔を見たというわけです。
このデルフィンさん、今は、生まれ故郷の大阪府和泉市の市会議員を務められているそうです。そう言えば、かつての盟友サスケさんも2003年に岩手県会議員選に出て、トップ当選しています。(デルフィンさんは1期目は2位当選、2期目は8位当選)、おふたりとも仮面をつけたまま議会に出ることを認められたといいますから、なかなか粋なことをするものですね。デルフィンさんは、サスケさんが当選したこの年に、早坂好恵さんと結婚しています。早坂さんは、沖縄アクターズ・スクールを出て、14歳で上京し、翌年にファーストシングル「絶対パート2」でアイドルデビューして・シングル7枚、アルバム3枚を出す一方で、フジテレビの「笑っていいとも」のレギュラーや、日本テレビの「マジカル頭脳パワー」、フジテレビの「タモリのボキャブラ天国」で準レギュラーを務めるほか、テレビ朝日では自身の番組「パッパラ!パラダイス」を持ち、ラジオのニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」では、パーソナリティを務める売れっ子のバラエティ・タレントさんでもありました。どうしてそんな彼女のハートを射止めることが出来たのか不思議でなりません。どうやら、デルフィンさんがメキシコ修業で身につけたのは、プロレス技の速さだけではなかったようですね。好恵さんは、11年から4年間ほど、沖縄を中心に全国展開していた「ブルーシール・アイスクリーム」関西空港店のオーナー兼店長をされていたことがあり、何かの折に通りがかった私が、早坂さんから「木村さん」と呼びかけられたことがあります。デルフィンさんといい、早坂さんといい、相手の方から呼びかけられないと気がつかないのは、情けないという他ありませんね。
ウルティモ・ドラゴンさん
ザ・グレート・サスケさん
スペル・デルフィンさん
大阪プロレス
前列中央が、くいしんぼう仮面
えべっさん
フェスティバル・ゲート
デルフィン・アリーナ
早坂好恵さんのCD
「パッパラ!パラダイス」のワンシーン【ゲスト:とんねるず 野沢直子】
アイスクリーム店「ブルーシール」