木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 年が明けて2000年1月6日、上京した私は、まだ経済産業省と名前を改める前の通産省へ向かいました。岡山の県紙「山陽新聞」が23日に掲載する、経済企画庁長官の堺屋太一さんと、萩原誠司市長、そして私との鼎談をするためでした。堺屋さんと萩原さんは共に省のOBということで、旧知の仲だったのですが、私はお目にかかるのは初めてということもあり、いささか緊張しながらお待ちしておりましたが、ややあってにこやかな笑顔で現れた堺屋さんの、柔和なお姿を見てホッと胸をなでおろしました。もちろん、堺屋さんが70年に大阪万博をプロデュースされたことや、76年に「団塊の世代」、81年に大河ドラマの原作にもなった「峠の群像」85年に「知価革命」などを書かれ、時代を的確に読まれる慧眼の持ち主であることは存じておりましたが、一方で女子プロレス、中でも尾崎真由美のファンで、試合会場にも顔を出されることがあると聞いて、「こういう人が本当のインテリって言うんだろうな」と思いました。鼎談そのものは司会役の腰宗孝昌編集局長の差配よろしきを得てスムーズに運び、夕刻に東京支社へ顔を出して、林社長・横澤常務と共に、一徹そばで知られた赤坂の「割烹たけがみ」で会食をしました。

 2月28日、岡山国際ホテルで17時から開いた事務所開設披露パーティには、山陽新聞の記事の効果もあったのか、中四国政財界、地元企業などから約500名ほどの方にお越しいただき、坂田利夫さんと若井みどりさんの漫才などを披露していただき、大いに盛り上がりました。実は、パーティ終了後に、萩原市長や、助役、経済局長、住宅さんらと、我が社から私、吉野さん、川崎さん、西村君が出て、ホテル地下1階にある懐石料理「淙々亭」で会食をしたのですが、さて帰ろうかと思っていたら、市長に「駅前に丸天というラーメン屋があるから!」と引っ張って行かれたのです。パーティが盛況だったこともあって、気分が高揚されていたのだと思います。

 さて、4月1日、いよいよ劇場がオープンする日がやってきました。9時30分からのオープニング・セレモニーを経て、12時と15時、2回公演も盛況裏に終えることが出来ました。これも西村君たち岡山事務所のメンバーの努力と、住宅さんのお陰です。19時から岡山国際ホテルで行われた、岡山市と吉本共催のパーティには、有料にも関わらず、なんと1500人もの方々にお越しいただきました。その後、萩原市長は2期目の任期途中、自民党の要請を受けて衆議院選に出て当選をされ、今は同じ岡山県の美作市長を務めておられます。一方、住宅さんは、家業を継ぐため市役所を退職され、2008年岡山県知事選に出て31万票を集めたものの落選、中には「ちくわ」とか「ちくわのおじさん」と書いた無効票も多くあって、もしこの票が有効であれば、当選したのでは?というエピソードを残しました。今は、ちくわ笛の奏者・エンターティナー・気象予報士として活躍されていると聞いています。

行ったのはここではなく

ここでもなく

ここでした

東洋経済(1999年7月17日発売)

大阪万博

太陽の塔に群がる人々

「割烹たけがみ」の一徹そば

岡山国際ホテル

「淙々亭」の食事

丸天