木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 新社長となった林さんは、7月26日、平戸取締役を司会に始められた経営会議の席で、東京での事業拡大と、スポーツ事業や音楽部門へのチャレンジなどを打ち出し、9月27日の役員会で、2000年4月に東京支社を東京本社として東西2本社制にすることや、創業88周年パーティを兼ねて、新社長就任パーティを行うことがオーソライズされました。林さんの胸の内を忖度すれば、戦前から戦後にわたって吉本の礎を築かれた正之助さんや、テレビと連動し、吉本を企業としてさらに発展させて来られた中邨さんとは異なる色を出そうという意気込みに溢れていたのだと思います。

 同じこの年の7月1日、私は岡山市の萩原誠司市長にお目にかかるため、岡山市役所を訪ねています。この年の1月、通産省のキャリアから転身されて初当選された方で、市街地活性化の施策として「吉本を誘致するということを掲げて当選したから、何とか岡山に出てくれないか」ということだったのです。話をつないだのは、あの川崎宗夫さんでした。多分、当時親しくされていた山陽放送サービスさん辺りから情報を提供されたのだと思いますが、それを聞いた私は、一瞬たじろいだのですが、よくよく考えると、「それもありかな?」と思い直して、お目にかかることにしたのです。思えば、「全国吉本化」を標榜して以降、88年に名古屋、89年に福岡、94年に札幌と、事務所や劇場を開設してきましたが、中・四国の拠点だけが抜け落ちていたのです。普通なら「広島を!」と考えるのでしょうが、全国を歩いて感じた私の肌感覚によると、広島市はどちらかというと東京志向が強く、大阪志向が強いのは、少し東寄りの福山市辺りまでかなという思いがあったのです。現に、大阪のラジオ放送は岡山でも聞くことができましたし、私がMBSのラジオ生出演を終えて岡山へ行ったとき、タクシーの運転手さんから「ラジオを聞いていました」と言われて驚いたこともありました。

 もう一つは、四国へのアクセスがいいことでした。TBS系の山陽放送(RSK)や、フジテレビ系の岡山放送(OHK)、テレビ東京系のテレビせとうち(TSC)こそ岡山に本社を置いていますが、日テレ系の西日本放送(RNC)や、テレ朝系の瀬戸内放送(KSB)は高松に本社を置き、瀬戸内で最も海域の狭い両県でが視聴区域を共有していて、四国を視野に入れた拠点としても、岡山が適しているのではないかと思ったのです。岡山県単体では、広島県に比べて少ない人口数も、香川県を加えれば、広島県にほぼ匹敵していました。

 はじめてお会いした萩原市長は、東大を出て、プリンストン大学へ留学されたキャリア臭など、凡そ感じさせないフランクな方で、そのうえ顔がなんと、西川きよしさんにそっくりだったのです。その方から「誘致を予定している表町は、「木下サーカス」発祥の地で、現在でも映画館や劇場の集まる市内最大の商店街だけれども、近年は通行量も減少し、求心力も弱まりつつある。この商店街を何とか活性化するため協力してほしい」と要請されたのです。

 劇場の運営は岡山市評議会が行い、吉本のタレントが出演するのは金曜から日曜の週末3日間でした。実際に責任者として業務を担当されるのは住宅(すみたく)正人さんという方で、市長からこの方を紹介されて、姿を見た途端、ゆるキャラを思わせる風貌を見て、気が和んでしまいました。この御仁、萩原市長と同じ県立大安寺高校の後輩で、岡山大学を出られた、日本有数の「ちくわ笛」の奏者だというのです。ちくわは食べるものだとばかり思い、まさか笛になるとは思ってもいなかった私は、「西川きよしさん似の市長」や、「癒し顔の住宅さん」など、豊富なキャラを次々に繰り出す岡山市役所の術中にまんまとハマり、翌2000年4月1日から表町で「よしもと3丁目劇場」を開催することに決め、先行して2月28日開設する事務所の責任者を、こちらも癒し系で対抗すべく、ピンチに陥ると必ず語尾が震える、西村学君とすることにしたのです。

西川きよしさんにそっくりな萩原誠司市長

ちくわ笛の名手・住宅正人さん

よしもと3丁目劇場

かってITSという制作子会社でディレクターも務めていました