木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 立命館大学とのインターンシップは3年間にわたって実施し、その体験を生かして吉本に入社をする学生も出てきたのですが、それ以降も小畑さんには折々にお目にかかって、何かとお話を伺うようになりました。2度目からは裏地の色も普通に代わっていたところを見ると、もしかしたら最初のスーツは、こちらにインパクトを与えるための作戦だったのかもしれません。小畑さんはその後立命館を辞め、04年大学法人化と同時に和歌山大学へ理事・観光学部教授として移り、12年からは追手門大学社会学部教授を務められました。

 この当時は、東京で間寛平さんのマネージャーとして、NTVの「24時間テレビ」出演などで成果を上げた比企啓之君が大阪へ戻り、2丁目劇場の支配人として、千原兄弟やジャリズムを中心とする「WA CHA CHA LIVE」や「D・R(どえらいロックの)PROJECT」を立ち上げ、ABCTVの「すんげ〜!ベスト10」などの助けもあって、2丁目は活況を呈していました。97年比企君は彼らと共に再び上京して全国制覇を目指すのですが、千原兄弟やジャリズムたちの活躍に比して、DRプロジェクトのメンバーは苦戦を強いられていたのです。調べてみると、音楽専門誌は全国に凡そ100誌あるのに、関西にはたった2誌、まるで漫才ブームが起こる以前のお笑いの世界のように、東西間には情報の発信格差があったのです。そこで「何とかこの状況を変えることは出来ないか?」と考え立ち上げたのが、音楽専門誌「MaMA」マガジンだったのです。

 プロジェクトの中心を担ったのは、大学時にバンドをやった経験もあり、大日本印刷在社時に、関西の音楽市場活性化のために、CDBOOK というアイデアを提案してくれたことがあった眞邊君でした。音楽に疎い私などは、当時お付き合いのあった3社からの出資を仰いだだけで、コンテンツや印刷はすべて彼に委ねることにしました。定価880円、112P、奇数月の20日発行という隔月誌としてスタートする事になりましたが、発行を委託していた京都の光琳社が倒産したあおりを受けて、2年余りで閉刊せざるを得なかったのが悔やまれます。光琳社は60年に京都で創立されて、美術を中心としたサブカルチャーにとても理解のあった出版社で、大手出版社が牛耳る流通経路を小規模出版物に開放をしていただけに、その倒産は惜しまれました。

 一方、眞邊君はその後、99年、KTV開局40周年作として撮られた、池脇千鶴さんの初主演作品「大阪物語」の書籍化などを手掛ける一方で、学生援護会さんと組んで、新人クリエーターを発掘、世に出るチャンスを与えるべく、「BAT(BREAKOUT ARTIST TEAM)」クリエーターズ・オーディションを行い、応募作4012点の中から、優秀作品を創った17人を選び、ビジネスとのマッチングを図りました。眞邊君はその後、積年の赤字傾向にあったYESFMの立て直しに尽力して、02年には吉本を退職、自ら起業をして、ソフト制作の傍ら、企業研修にも取り組み、今も立命館大学との縁は切れず、講師として招かれているといいます。

「WA CHA CHA LIVE」の様子

「すんげ〜!ベスト10」

2丁目に出ていた「brats on B」

2丁目に出ていたバンド「今週の山田太郎」でなく、この人はずっと山田太郎です

眞邊明人君

光琳社が出していた「COLOR・S」

これも光琳社が出していました

大阪物語

デイリー「an」