うめだ花月シアターでは、スペシャル公演の終わった後、UKプロジェクトを立ち上げ、93年から通常の昼席の他に、ドン・キホーテと和泉修さんがメインになって、日替わりゲストの漫才、コント・マジック・ファンキーロケッツのダンス・コメディをとりまぜたバラエティショー「吉本BokeBokeナイト寄席」や、謎のイベント「お笑い虎の穴」などを行っていました。更に95年からは「天然素材」に次ぐユニットとして結成されたNSC12期生6組(COWCOW・ビリジアン・スキヤキ・シンドバット・ブラザース・おはよう)のフルーツ大統領が出演、MBSの「嵐MASSE!」などの番組も付いたのですが、大人の客はNGKに、若い中・高校生の客は、天然素材メンバーによる「2丁目えぶりい亭」や、千原兄弟を中心とした「WACHACHA LIVE」に流れて、依然苦戦を強いられたままでした。
このあたり、劇場のコンセプトや出演者の問題というより、ロケーションの事情もあったと思います。私も梅田花月を閉じて2年間ほどこの地を訪れることはなかったのですが、久しぶりに訪れた曽根崎商店街が以前に比べ、どこか寂しくなっているように感じたのです。梅田花月へ行く際によく通っていた、名前に合わず濃いコーヒーを出す喫茶「アメリカン」や広東料理の「桃花園」、店主が捕虜になった際、ロシア兵が食べていたものをヒントに創ったといわれる、とんぺい焼の元祖「本とんぺい」、お好み焼きの「ゆかり」、ライブハウスの「amHALL」こそ残ってはいましたが、かつての賑わいに比べると、通りを行きかう人の数がかなり減っているように思えたのです。
扇町筋を入って、近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台になったといわれる露天神社(お初天神)まで、たかだか300mくらいの短い商店街でしたが、往時は多くの店が立ち並び、アーケードが架っていたこともあって、雨の時にも賑わいが絶えなかったように思います。ドーナツ化のあおりを受けてか、通りにあった明治7年開校の曽根崎小学校も、校舎こそ残ったものの、85年には堂島小学校と合併を余儀なくされ、89年梅田東小学校と合併し、校名を大阪北小学校と改称して残りはしましたが、全校生徒数は僅かに148名、いずれ廃校になるのは時間の問題とささやかれている有様でした。
NGKや2丁目とどう棲み分けていけばいいのかと考えている時に、ヒントをいただいたのがオフィス100%の尾中美紀子さんでした。尾中さんは、かつてボクサーを辞めた赤井英和さんを阪本順治監督の映画「どついたるねん」、「王手」で見事俳優として蘇らせ、その後、国村準さんをマネジメントして今日の姿にした方です。国内の舞台・ドラマ・映画ばかりではなく、香港の映画事情にも精通されていて、新喜劇や2丁目で演出をしていただいている湊裕美子さんも所属している事務所の社長として、湊さん同様、女を捨てて(いや、捨ててはいないか?)頑張っておられました。「なら、いっそ、単館系の映画館ってどうでしょう?」という言葉にのってみようと思ったのです。そういえば、吉本でも、旧なんば花月の地下に88年まで「花月シネマ」という名画座を持っていたことがありました。逆に空間の狭さも活かせるかもしれないと思ったのです。堂島にあった大毎地下劇場も、ミナミにあった戎橋劇場や大劇名画座も既になくなっていました。それを「採算に合わない」と捉えるか、逆に「チャンス」と捉えるかは別れるところではありますが、あいにく私は後者の方だったというわけです。とはいえ、昼間の興行をすべてやめるというわけにはいきません。そこで昼間は通常の興行を行い、夜7時からは映画館「うめだ花月シアター“夜だけ映画館”シネマワイズ」として映画の興行を始めることにしたのです。
フルーツ大統領
露天神社(お初天神)
曽根崎お初天神通り
尾中美紀子さん(左)と湊裕美子さん
なんばにあった「花月シネマ」
シネマワイズのチラシ