木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 95年6月には、桂三枝さんの幻の参議院選出馬騒動もありました。レギュラー番組の調整もあり、ご迷惑をかけることになる放送局や代理店の担当者へアプローチをしなければいけないのですが、当然その動きはマスコミの知るところとなるわけです。東京のマスコミが騒がしくなった9日金曜日の夜は、同じ関西大学出身ということもあり、かねてから三枝さんが親しくされていた「パソナ」の南部さんにお願いをして匿っていただき、翌10日、伊丹を避けて、わざわざ関空便で大阪へ帰り、本社で打ち合わせをして、週明けの月曜、12日に記者会見を行うことになりました。ところが11日、日曜日に電話が入り、午後1時本社でお待ちしていた私の前に、奥様と友人の「UPスポーツ」の山崎社長を伴って現れた三枝さんの口から出た言葉は「出馬を断念する」ということだったのです。

 もともと、会社としては積極的に賛意を示していたわけでもなく、ご本人の意思が覆ったのは有難いことではあるのですが、さて、困りました。翌日に設定した記者会見で「何と言えばいいのだろう?」と悩みながら窓外に目をやっていると、以前から親しくさせていただいていた某新聞社の部長から電話が入り、「武村大蔵大臣が会いたいと言ってるから、夜の10時に京都全日空ホテルの〇〇〇号室へ来ませんか?」とのことでした。「いったい何の用件だろう?」とは思ったのですが、大蔵大臣とお会いできる機会というのもそうはないだろうしと思って出かけることにしました。

 部屋へ通され、座るや否や、「ムーミンパパ」の口から出たのは、「今回の選挙に、三枝さんが新党さきがけから出ませんかね?」という言葉でした。一瞬、「またその話かよ」とは思いましたが、時の大蔵大臣にそんな失礼な口を利くわけにはいきません。その間の事情を縷々説明させていただき、席を辞そうと腰を浮かせると、「三枝さんがダメということなら、Bさんは?」と同じ門下の落語家さんの名前を挙げられました。「何や、誰でもええんかい」とは思いましたが、そんなことはおくびにも出さず、「いやあ、彼はまだ、今の世界で頑張りたいんじゃないですかね」と申し上げてその場を離れました。

 さて翌月曜日、本社で中邨社長と林専務の前で最後の意思確認をした後、三枝さんは記者会見に臨みました。私も三枝さんの横で会見の様子を見ていたのですが、「出馬します」というならともかく、「出馬しません」ということになり、会見場のムードがいささか盛り上がりに欠けるものになったのは否定できませんでした。とは言え、この時に出された結論は、ご本人にとっても、会社にとっても、「よし」とすべきものであったような気がします。それにしても、密度の濃い、なんとも疲れの溜まる数日間でしたね。

桂三枝さん

 

 

 

 

武村正義さん

 

 

 

 

 

 

ムーミン・パパ

 

 

 

 

記者会見をした南海サウスタワーホテル