木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 94年、中国から帰ったあたりから、少しずつ女子プロレスのことが気になり始め、周辺の人たちから徐々に情報を収集するようになりました。6月には、旭通の岡安さんから、社内の女子プロ通の方を紹介してもらって、提案書をいただいたり、プロレス中継をされていた、制作会社・テレテックの小島社長からご紹介を受けて、全日本女子プロレスの松永会長ともお目にかかり、お話を伺うこともできました。そして11月20日、4万人を動員して、のちに「女子プロレス最大の興行」と言われた全女主催の「憧夢超女大戦」を見るため、東京ドームへ出かけ、メインイベントの北斗昌とアジャ・コングの対戦までの全23試合を観ました。個人的には第2試合でミゼットレスラーのタッグマッチを見られたのが収穫だったのですが、さすがに全試合が終わったのが日を跨いだのには参りました。翌朝8時半の便で帰阪しなければいけなかったのです。

 その後もミーティングを重ね、女子プロレスが黎明期や胎動期を経て、「ビューティ・ペア」のアイドル期、更にシューティング・アイドルとしての「クラッシュ・ギャルズ」と、ダンプ松本やブル中野といったヒールが対峙する時代から、全女のアジャ・コングやJWPのダイナマイト関西、FMWのコンバット豊田、ガイア・ジャパンの長与千種、LLPWの神取忍といった「男勝りの女子レスラー」たちが完全決着を繰り返す過激な場と化していることが分かりました。一方で、ミミ萩原の流れを汲む美少女路線はキューティ鈴木に受け継がれ、それをいじめる美少女としての尾崎魔弓や井上貴子などもいたのですが、前述したヒール派の前では、存在感の希薄さは否めないという状況でした。

 振り返ってみれば、ちょうどこの94年、男子のプロレスではアントニオ猪木が引退へのカウントダウンを発表して、次第にインディーズ系のレスラーが増えていき、「芸としてのプロレス」のレベルが下っていったのと軌を一にしていたのかもしれません。プロ野球にONに対抗する村山や江夏、大鵬に対抗する柏戸というアンチヒーローの存在が欠かせなかったように、アンチヒーローとしてのヒールばかりが目立つだけでは、エンターテインメントとしては成立しないのです。おまけに前年に、正道会館の石井館長が始めたK1が、ガチの勝負として脚光を浴び、4月30日、代々木競技場第一体育館で行われた「K1グランプリ」では12,000人の観客を集めていました。プロレスは次第に嘗て格闘技界で占めていた座を脅かされつつあったのです。

 そんな時期に、どのような女子プロレスを目指せばいいのか?皆との協議を経て出された結論は、従来の概念にとらわれず、美しさも尊重した選手構成にして、既存の戦力の洗い出しや、各方面に才能を求める一方、積極的に人材発掘を推進して、月に数回、後楽園ホールにプロレスを見に来るヘビーなファンではなく、昔女子プロレスが放送されていた頃、テレビでは見ていたけれど、試合を見に来るほどの興味のなかった潜在的な関心層や、無関心層までを取り込んだ、スポーツ・エンターテインメントにしようというものでした。キャッチフレーズは「戦う!宝塚」、団体名は、かの百年戦争で、崩壊の危機からフランスを勝利に導いた少女、「ジャンヌ・ダルク」に因んでBeauty Athlete「Jd‘」とすることになりました。

全日本女子プロレス 松永高司会長

 

 

憧夢超女大戦

 

 

メイン・イベント

 

 

正道会館 石井和義館長

 

 

K1グランプリ93の開かれた代々木競技場第一体育館

 

 

ジャンヌ・ダルク