木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 86年頃だったと思います。当時女子プロレスをゴールデンタイムで放送していた、フジテレビのディレクターから誘われて、川崎市体育館へ行ったことがありました。女子プロレスと言えば、たしか、中学生くらいの頃、テレビで見たことがあるくらいで、リングネームも力道子や東富士子など、力士からとった名前のレスラーがいた記憶しかありませんでした。たしか、今では考えられない「ミゼット・レスラー」なども出ていたように思います。その後、タレントに転向したマッハ文朱さんが出たり、「ビューティ・ペア」(マキ上田・ジャッキー佐藤)の「かけめぐる青春」という曲が大ヒットしたり、アイドルから転向したミミ萩原さんが、113連敗して逆に人気が出た高知競馬の「ハルウララ」のように、87連敗もして史上最弱のレスラーとして話題を呼び、「セクシーパンサー」と呼ばれる人気者になったことは知ってはいたものの、私の抱いていた女子プロレス像は昔見たイメージのままだったのです。

 ところが、その日、私が足を踏み入れた場内は、客席が中高生の女の子たちで占められていて、彼女たちがあげる歓声や、投じる夥しい数の紙テープがリングを覆っていたのです。観客のほとんどが男性で、「ある種の色っぽさを期待して見に来ているのでは?」と思っていた、私の予想は見事に覆りました。振り返ってみれば、当時は「クラッシュ・ギャルズ」(長与千種・ライオネル飛鳥)の全盛期でもあったのです。試合そのものは全く印象に残っていないのですが、あの時に体験した昂揚感は、そのあとも記憶に残り続けました。

 誤解を招くといけないのですが、私は女子プロレスにある種の「演劇性」を感じていたのです。でないと、年間に何百試合も熟すことはできませんし、ただ単に、強い者が勝つというだけでは、長く客を惹きつけることもできません。何より、ほかの格闘技と違って、双方の良さをそれぞれに発揮させた上で優劣をつけるところが、エンターテインをしていると思ったのです。

 調べてみると、日本の女子プロレスの歴史は、力道山がプロレスに転向した51年よりも古く、48年にボードビリアンとして活躍していたパン猪狩とショパン猪狩の兄弟が、アメリカで人気の女子プロレスに目をつけて、「これを日本でショーとして舞台に上げれば、客に受けること間違いない」と、三鷹市の国際基督教大学裏に道場を建て、妹で後に「日本最初の女子プロレスラー」と呼ばれた、猪狩定子さんらに特訓を施したのが始まりだと言われています。ショパン猪狩さんが、「レッドスネーク、カモ-ン!」で知られた、東京コミックショーの方であることを思えば、芸能と女子プロレスが、極めて近い世界にあるという事がわかります。その後、猪狩さんたちは地方巡業をしていたのですが、2年後に日劇小劇場公演をしたところ、警視庁から禁止令が出て自粛を余儀なくされていたのですが、54年2月、力道山がシャープ兄弟と対決した年の11月、新聞社と組んだ猪狩兄弟は、米軍慰問のため来日していた、WWWA世界チャンピオンのミルドレッド・バークやメイ・ヤングら6人を3日間満員にした蔵前国技館のリングに上げ、猪狩定子らの日本人女子レスラーたちに前座を務めさせ、その後、大阪府立体育館・神戸王子公園体育館・京都アイスパレスなどでも公演をしたのです。

川崎市体育館

 

「ミゼット・プロレス」と呼んでいました。

 

マッハ文朱さん

 

ビューティ・ペア

 

ミミ萩原さん

 

ハルウララ

 

クラッシュ・ギャルズ

 

ショパン猪狩さん

 

日本最初の女子プロレスラー 猪狩定子さん

 

 

 

WWWA世界チャンピオン ミルドレッド・バーク

 

メイ・ヤング