93年10月25日、日本経済新聞社から出版された「会社の年齢」によると、「吉本興業の企業年齢は93年3月末で35.7歳。83年3月末は68.8歳だったから、30歳以上も若返り、若返り幅は調査対象2352社中、最大だった」と記されています。続いて、「会社の年齢の算出根拠となっている、5年間の平均増収率、従業員の平均年齢、設備年齢を、同じ大阪を中心に興行を営むコマ・スタジアムと比較して、吉本の若さがいずれも目立つ」と、多彩なメディアや業態へ展開する姿勢を評価しています。もちろん総てが成功したわけではありませんが、果敢にチャレンジをしていくという企業の姿勢が評価されたわけです。とりわけ、カリスマ・林会長の亡きあと腕を揮って来られた、中邨社長の手腕によるところが大きかったように思います。
関西学院大学でラグビーをやっておられ、立派な体躯で押し出しも強く、どこから見てもリーダー然としていた人でした。マージャンも好きで、マージャンを知らない私などは、その席に加わることもできず、ただ周辺から眺めているだけのことでした。ひょうきん族で、多少の揶揄を込めて、タレントに「お前ら、働け!働け!でないと、ワシら楽でけへんがな!」と「働け光線」を浴びせるシーンがあったと思いますが、そのシーンに出演していた吉本のタレントが、一様に、ビビリながら演じていたのを憶えています。「アバウト中邨」と異名があったように、大様な性格であるように思われていますが、私には、その実、細心な人であったと思われます。でないと、部下のリーチが伸びないからです。決して頭ごなしに否定されるようなことはせず、まずは相手の言い分を聞いてから、という姿勢は崩されなかった気がしますね。亡き林会長が、一時期吉本の社長を退かれた際に、社外に去っておられたこの人を、社長復帰時、自ら口説いて社に戻されたのは、大正解だったと言って過言ではありません。吉本にとって、正に「中興の祖」と呼ばれて然るべき人であったという気がしています。
実はこの時期、私は他の案件も手掛けていて、その中の一つがプロレスリングでした。吉本の林正之助・弘高兄弟は、戦後、大相撲を廃業して、アメリカへプロレス修行に出かけていた力道山を空港に迎え、新田建設の新田新作社長や、浪曲興行を手掛けていた永田貞雄氏と共に、53年「日本プロレス協会」、翌54年「日本プロレス興行株式会社」を設立。新田社長のもと、林正之助・弘高兄弟も永田氏と共に役員に就任。力道山と「柔道の鬼」木村政彦がタッグを組んで、シャープ兄弟と対決する試合はNTVに加えて、なんとNHKでも全国放送され、プロレスの一大ブームを引き起こしました。57年、路線の対立から、力道山袂を分かつことになりましたが、のちのプロレスブームの発端となったのは、正にこの時だったのです。
私もいつか、林会長が、シャープ兄弟と並んで撮られた写真を見せてもらったことがありますが、どう見ても、シャープ兄弟より林会長の方が強そうに見えたのを憶えています。当時のことを知る大谷さんという古参の上司から聞いたところでは、客が押し寄せて、お札をバケツに入れて上から踏みつけないと入らないほど儲かったそうです。「時々は、自分の懐にも入れたけど・・・」などと、話を盛り上げるための脚色も加えつつ、懐かしそうに話しておられました。そうです、この人が新入社員の私を、何の説明もなく京都花月に置き去りにした人だったのです。伏見稲荷の広場に設えられた街頭テレビを、漫然と眺めていた子供の頃が、懐かしさと共に頭の中に蘇りましたね。
中邨秀雄さん
吉本興業とコマ・スタジアムの年齢格差
関脇時代の力道山
タッグを組んだ力道山と木村政彦
シャープ兄弟との試合
プロレス 力道山戦を見るため群らがっている人たち