木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 さて、横澤さんとの件をお話せねばなりません。94年の年明け5日、林専務と共に、恒例の大阪局へ新年のご挨拶回りをしている移動の最中、不意に「横澤さん、吉本へ来てくれんかなあ?お前、ちょっと聞いてみてくれ」と言われたのです。「えっ!横澤さんをですか?」、予想もしない言葉に驚きつつ、「分かりました」と返事をして、さっそくお目にかかるべく連絡を取り、目黒の椿山荘でお目にかかったのは12日のことでした。

 この頃の横澤さんは、「カルチャー路線」でフジテレビの黄金期を築いた鹿内春雄氏が早逝された後、後を継いだ宏明氏の構想から外れ、役員待遇エグゼクティブ・プロデューサーとして、「夢列島」など大型番組の担当はされていたのですが、92年からは、同じフジテレビ系列のポニーキャニオンが出資をする「ヴァージン・ジャパン」を兼務、ヴァージンが撤退した後は、「メディア・レモラス」というアニメソングをメインにする小さなレコード会社に社長として出向されていました。「レモラ」はコバンザメという意味で、「メディアに張り付いて進め」という事らしいのですが、とてもあの横澤さんがされるような仕事ではなかったように思います。私などには一切愚痴めいたことはおっしゃいませんでしたが、フジテレビを視聴率トップに押し上げた功労者の一人でもある横澤さんの心中を察すると、何やら割り切れないものがあったに違いありません。

 いつものように笑顔で現れた横澤さんの第一声は「相談があるって、またどこかで始める番組のこと?」というものでした。以前ほどの頻度ではなくとも、事あるごとに相談を持ち掛けてきた私のことだから、またいつもの・・・」と思われたのも不思議ではありません。しばし近況などを報告し、フジテレビの状況などを伺った後、意を決して「実は、林が吉本へ入っていただけないかと申しているのですが」と切り出すと、しばしの沈黙の後、「秘密の厳守」をお願いされ、「返事をする期限」を尋ねられました。もちろんこのことは、中邨社長と林専務、そして私だけしか知らないこと、期限については林専務に確かめるという事でこの日は別れたのですが、私が受けた感触では「脈があるかな?」というものでした。

 林専務にはそのことを伝え、待遇や職務について私が聞くのも僭越なので、あとは林専務にお任せをして、6月21日、横澤さんと中邨社長、林専務、私の4人で紀尾井町にある、魯山人が愛したという料亭「福田家」で会食をして、フジテレビ側の感触を伺いました。88年早逝された鹿内春雄さんの後を担って、一時父の信孝氏が復帰されたものの、その信孝氏も90年に亡くなられ、92年7月にその後を継がれていた女婿の宏明氏を解任して鹿内家の支配を断ち切られたお二人、社長の日枝さんと、元社長で、当時は産経新聞の社長をされていた羽佐間重彰さんに相談されたようで、日枝さんは賛成、羽佐間さんは懸念を示されたとのことでした。とは言え、ご本人の下された結論は揺るがず、10月25日、再び同じ3人でフジテレビを訪ねて、日枝久社長と、羽佐間重彰さんにご挨拶をさせていただきました。これで無事、横澤さんのフジテレビ年内退社と、95年1月からの吉本に正式入社が決まったわけです。

 まずは社の空気に慣れてもらうため、しばし大阪のホテルに滞在していただく事になったのですが、フジテレビ主催の「横澤さん送別会」が京王プラザホテルのエミネンスホールで開かれる1月17日の朝、戦後最大の大規模災害といわれる、あの「阪神・淡路大震災」が起きたのす。

椿山荘

 

 

メディア・レモラス

 

 

コバンザメ

 

 

紀尾井町「福田家」

 

 

 

 

フジテレビ編成局長時に懺悔する日枝久さん

 

 

水をかぶる日枝さん

 

 

もしかしたら横澤さんをフジに戻さなかったのはこの時の恨み??

 

 

ニッポン放送 編成局長時代に「オールナイト・ニッポン」を作られた羽佐間思彰さん

 

 

京王プラザホテルの「エミネンスホール」