木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 久しくお会いしてこなかった空白を埋めるかのように、互いの近況を話し合った後、本題に入る前に、増田さん以降のパルコの状況などをお聞きした上で、吉本として「東京進出にインパクトを与えるためにも、ぜひパルコさんと組みたい」という意向を伝えました。次にパルコの武田常務とお会いしたのは6月8日でしたから、この間に境さんが鋭意根回しを図っていただいたのだと思います。10月31日から11月3日くらいなら可能性があるというお返事をいただき、次回は企画内容を詰めてお会いするという事にして、都度、境さんのアドバイスを頂きながら、社内の主要メンバーとのミーティングを重ねました。タイトルは「渋谷リトルオーさか4Days~史上最大の営業~」。パルコ劇場での花月公演の他に、広報からイベントプロデュース部に異動していた竹中功君の出した案を入れて、パーク・スクエアに「リトル・オーサカ・センター街」を作り、シンボルに通天閣を模した櫓を建て、河内屋菊水丸さんの音頭に合わせる盆踊りや、今宮えびす神社や、たこ焼き・お好み焼き屋の店が、オーサカのおっさん付きで出店するなど、大阪テイストに溢れた催事を行おうというものです。

 菊水丸さんは80年に吉本入りをして、84年、「新聞(しんもん)詠み」という創作音頭のジャンルを開拓して、関西を中心に活躍をしていたのですが、リクルートのフロムAの姉妹誌が発売される火曜・金曜に合わせて「カーカキンキン、カーキンキン」と歌ったCMソングが話題を呼び、CD化された「カーキン音頭」も20万枚のヒットになり、「ミュージック・ステーション」や「紅白歌合戦」、「徹子の部屋」に出演するなど一躍全国区に人気者になっていました。この仕掛人が竹中君でした。直前に「リクルート事件」を取り上げた音頭を作っていたことを懸念する代理店に向かって「関係ありません」と押し切ったというのですから、見上げた根性をしているというほかありません。菊水丸さんは、その後、イギリスのBBCの音楽番組「イースタン・ヒット」に出演するなど海外でのライブ活動にも手を広げ、91年12月のソ連崩壊の3日前には、赤の広場でゲリラ・ライブを行っていました。フロムAのCMが関東地区限定でありながら、CM認知度が98.5%と高く、彼の出演もパルコ企画の実現の助けになったことは確かです。

 その後も現場間で擦り合わせを繰り返しながら、10月27日、パルコの山田社長にお目にかかれ、ようやく念願の企画が実現する運びとなりました。所用もあって、私は初日と最終日しか顔を出せなかったのですが、概ね意図は叶えられたのではないかと思っています。それにしても企画の実現に多大の貢献をしていただいた、境和夫さんには、ただただ感謝する他ありません。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

竹中功君

 

 

新聞(しんもん)詠み「タイガースV音頭」

 

 

新聞詠み「ワイは、横山じゃ」

おや?B面に「木村政雄物語」が・・・

 

 

ソ連崩壊を伝える新聞

 

 

赤の広場