木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 「上海パフォーマンスドール」(SPD)は、ソニーとヤオハン中国室が出資する合弁会社、中国上海歌星倶楽部所属の「上海歌舞麗人」として、7月6日にオーディションをしてメンバーを決定、8・9月は東京でレッスンとレコーディング、10・11月に中国に戻り、11月25日の「上海TVフェスティバル」を目指し、95年にはプロモーションを重ねつつ、「大阪りんくうたタウン」のテーマソングや、12月の「上海第一八佰半佰貨店オープン時にコンサートをすることが決まりました。ソニーの目黒部長や野中さんの話では、同じソニーでも中国は米国ソニーのテリトリーで、その調整も結構難しいとのことでした。吉本は出資はせず、日本でのプロモーションやパブリシティに協力をするというスタンスに留まることになりました。

 それにしても、「なぜヤオハンが?」と思われる向きもあろうかと思いますので、補足をしておきます。ヤオハンは、和田良平・カツ夫妻がのれん分けを受けて1929年静岡県に八佰半熱海支店を開いたことに始まります。(因みにカツさんは後に一説で、TVドラマ「おしん」のモデルとも言われた方です)、62年両親から経営を引き継いだ33歳の長男・一夫氏が、大型食品デパートとして静岡県下にチェーンを広げ、ダイエーやヨーカ堂など全国展開の大手スーパーとの不毛の競合を避けるべく、71年にブラジルへ日本の流通業では初の出店を果したのを機に、以降、積極的に海外進出を図り、86年には東証1部、88年には香港証券取引所に上場し、90年には国際流通グループ・ヤオハン総本部を香港に設立して、家族と共に移住されていました。

 我々が訪れたこの時期は、前年に「北京八佰半佰貨店」をオープンさせた後、翌95年12月のオープン初日に107万人が押し寄せて、今もギネス記録に残る、アジア最大規模の「上海第一八佰半佰貨店」(NEXTAGE)の開設準備に入っていた時期でもあったのです。96年には無錫にも店をオープン、総本部も、和田さんご自身の住まいも、上海へ移されようとしていた時期でもあり、94年2月、ソニーさんとの合弁事業にGOサインを出されたのだと思います。残念なことに和田さんはこの後、上海栄誉市民賞を授与された同じ97年9月、順調だった海外事業に比べ、不振を極めた国内事業に足を取られ、経営危機に陥った社の責任を負い、全ての役職から退かれました。

 94年の11月に、香港の日航ホテルで開かれた講演会で、和田さんの講演を聞いた後、ご挨拶をさせていただきました。当時は、社長在籍の30年間で、世界16か国に450店舗を開き、ピーク時の年商5000億円、従業員28,000人の企業に育てられ、ヒルトップの豪邸を構えられたサクセス・ストーリーを伺ったと思うのですが、私には、それよりも、国際経営コンサルタントになられた今、自らの過失を踏まえて語られている、「どの企業も、絶頂期にある時こそが、衰退に向かう危機なのだと思うべき」という方が、より深い言葉であるように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上海第一八佰半佰貨店

 

 

 

 

 

和田カツさん