木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 キャンペーンは、メインキャラクターの黒ラベル君も、クリエイティブディレクターの北村氏と対立した初代のティーアップ・前田勝君から、2代目の今田耕司へと変わり、2年ばかり続いたのですが、旭通の岡安さんとのお付き合いはその後も続き、何度か食事をしたり銀座へお供をしたりして情報交換を図っていました。年も近く、根っからの営業マンである岡安さんからお聞きする話がとても勉強になったのを憶えています。そういえば、岡安さんの地元にある人形町の「玉ひで」にご招待をしていただいたこともありましたね。「玉ひで」は1760年(宝暦10年)に軍鶏専門店として開かれた老舗で、「親子丼発祥の店」と言われている名店です。さすがに人気店とあって、我々が行った日も、すでに店の前にはお客さんが並んでいました。普段はあまり親子丼を食べない私が、あっという間に完食してしまったほどに美味しかったのを憶えています。そんな岡安さんとの銀座行きが、後に大変な事態を招いてしまうことになるのですが、その話はまた後日・・・

 この年、1月19~23日まで上海・北京へ行ったのは、EPICソニーレコードがデビューさせた「東京パフォーマンスドール」(TPD)の上海版を作るためでした。「東京パフォーマンスドール」というのは、もともと90年に芸能界に革命的な衝撃をもたらすべく、ペレストロイカを起こしたゴルバチョフの名前に因んで、「ゴルビーズ」という3人組(木原さとみ・篠原涼子・穴井夕子)でスタートした女性グループで、その後プロデュース依頼を受けた中村龍史さんが、4人の新しいメンバーを加えて、ノンストップで歌とダンスを繰り広げる、ダンスサミットとして再編されたものです。さすがにデビュー当初は苦戦をしたものの、その後、次第に人気が出て、93年の8月17・18日には、日本武道館で単独ライブをやるほどになっていました。さらに、この頃には1軍、2軍に加えて、研修生も存在するほどにメンバーの数も増えていました。研修生の中には、あの仲間由紀恵さんも居たといいますから、競争の苛烈さがうかがえます。まさに、多人数で歌い・踊る、アイドル・ガールズグループとして、日本の音楽史上初めて地位を確立したのが、この「東京パフォーマンスドール」だったのです。

 それを受けて、同年に姉妹ユニットとして6人の「大阪パフォーマンスドール」(OPD)を発足させたのが、大崎君でした。そんな彼とソニー・ミュージックさんとのご縁もあって、「上海パフォーマンスドール」の発足に吉本も一役を買うことになり、私も上海・北京へ行くことになったのです。

 ソニー・ミュージックさんからは、役員の五藤宏さんがいらしていて、文化傳播分公司や上海電視台、その後、北京へ移動して、北京日報などのマスコミや、人民解放軍の文化担当者の方々と会食や、打ち合わせを共にしたのですが、記憶に残っているのは、宿泊した上海の花園飯店と北京王府大飯店、中でも平均75歳のオールドジャズマン(老年爵師楽団)によるジャズを聴いた和平飯店(現フェアモント・ピース・ホテル)と、朝6時のモーニングコールで起こされて行った万里の長城くらいですね。耳がちぎれるくらいに寒くて、たった2・3分でバスに戻ってしまいました。それより帰りに食べた羊肉のしゃぶしゃぶが、やたら旨く感じられたのが記憶に残っています。「上海パフォーマンスドール」(SPD)は「上海歌舞麗人」となり、7月6日にオーディション、2度にわたる審査を経て8月25日最終決戦を行って、4人を選び、11月15日の上海TVフェスティバルを目指す事となりました。

人形町の「玉ひで」

 

 

東京パフォーマンスドール

 

 

大阪パフォーマンスドール

 

 

上海パフォーマンスドール

 

 

上海の花園飯店

 

 

北京王府大飯店

 

 

建物も人もレトロな和平飯店のジャズ・バー

 

 

冬の「万里の長城」

 

 

羊肉のしゃぶしゃぶ

 

 

冬季限定のしゃぶしゃぶ