ちょうど、翌年に銀座7丁目に劇場を立ち上げるべく準備にかかっていたこともあり、媒体を持つメリットはあるということで、話は順調に進み、9月30日に赤坂の料亭「佐藤」で3社のトップが顔を合わせることになりました。話を主導し、熱く語る土井社長、それを見守る中邨社長に比べて、「東西間の調整もありますので・・・」と言葉を濁す毎日新聞側のスタンスは明らかに違っていました。懸念していた通り毎日新聞は参加できないということになりました。
結局、大手新聞社との話は実現せず、JRの駅売店「KIOSK」への配置を決める鉄道弘済会との交渉も不調に終わり、関根編集長が実現することもありませんでした。首都圏で最も多くのサラリ-マンが利用するJRの売店に置けないというハンデを抱える日刊アスカは資金難のため、12月13日から半年間で幕を閉じることになり、結果として90年に20代~30代の女性をターゲットに創刊した、「東京レディコング」と同じ轍を踏むことになってしまいました。新興勢力にとって、既にKIOSK内に配置されている既得権者の壁は、それほどに厚かったということです。以降、長銀の仲介でセゾングループにアプローチしたり、夕刊フジと共同制作・共同セールスを模索するも奏功せず、4月新たに事業計画書を持参して来社された土井社長に「もうこれまでにしたら!」と断を下された中邨社長の冷徹さには驚きましたが、同時に「経営者は、かくあらねば!」という厳しさを教えていただいた気がします。93年12月1日付で編集部と広告営業部に出向をしていた奥谷達夫・島田剛両君には申し訳ないことをしました。
25億の大赤字を出した飛鳥新社は、94年ポップティーンをスタッフごと、土井社長が顧問をされていた角川春樹事務所に売却し、苦境に陥ったものの、06~09年、磯野家の謎の編集をされていた赤田祐一編集長のもと、月刊誌「団塊パンチ」を発刊、07年・12年・14年には再び「夢をかなえるゾウ」シリーズなどのヒット作を出し、最近では「WILL」を辞めた花田紀凱さんををスタッフごと迎え、「WILL」に対抗するかのように「HANADA」を発行するなど、土井社長の反骨精神は、いまだ健在なようで安堵をしています。
一方銀座7丁目劇場の方は、さすがに「タダ」というわけにもいかず、それなりの家賃を払うことにはなったようですが、順調に推移し、イベントホールを劇場仕様に改装して94年3月のオープンということが決まりました。問題は、誰が劇場のコンセプトを担うかということです。私の頭に浮かんだのは、当時電通さんとプロジェクトを組んで「天然素材」をヒットさせていた、木魚・泉君でした。年の瀬も押し迫った12月19日、若手有望社員を伴って社長や専務と訪れていたベルリンのインターコンチネンタルホテルで、彼からの長ーいプレゼンを受け、家族の待つパリへの移動時間を気にしつつ、熱く語る彼に「いいんじゃないか!」と返事したのを憶えています。企画書に何が書かれているかというより、その企画にどれだけ熱意が込められていることの方が大切だと思ったからなのです。
赤坂の料亭「佐藤」
JRの駅売店「KIOSK」
「団塊パンチ」
「夢をかなえるゾウ」
「WILL」と花田紀凱さんが編集長を務める「HANADA」
銀座7丁目にある東芝ビル(現在はZARAの店舗となっています)