木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 やしきたかじんさんと初めてお会いしたのも、ちょうど同じ92年頃でした。あるパーティに出て、帰ろうとしていた私をわざわざ追いかけてきて、「やしきと申します」とご挨拶して頂いたのです。もちろん私もお名前だけは知っていたのですが、吉本のタレントさんでもなく、格別お話をする機会もないまま過ごしていて、とっさに「いや、こちらこそ」と言葉を返したものの、私ごときにそこまでされる几帳面さには驚かされました。

 以来、大阪でこの人の番組を見るにつけ、「絶対東京でも通用する」と思い、老婆心ながら、親交のあったオフィス・トゥー・ワンのプロデューサーに話をしたのが効いたのか、10月から共同制作をしていたテレビ朝日の1時~2時半の深夜生放送「M10」のMCに起用されることになりました。

 ところが12月11日、事件が起こったのです。「たかじん男の料理」のコーナーで、たかじんさんが料理を作ろうとしていたら、好みの調味料・味の素が用意されていなかったのです。これに激昂した彼は、アシスタント役のトミーズ雅君の取り成しも聞かず、生本番を放棄してスタジオを後にしてしまったのです。おかげで、番組は翌週からVTR収録となり、たかじんさんも翌年3月までは出演したのですが、綿密な準備をして本番に備えている彼にとって、スタッフの粗雑な対応が許せなかったのだと思います。

 今思えば、後々、彼が東京嫌いになった原因の一端は、この「味の素事件」にあったのではないかと思います。84年には「あんた」、86年には「やっぱ好きやねん」など、ビクターから出した曲がヒットし、ABCラジオの帯番組「聞けば効くほどやしきたかじん」が話題になったとはいえ、まだ関西以外ではそれほど顔も売れておらず、東京では、どこまでが姓で、どこからが名前か分からず、「やしきた・かじん」さんと呼ぶ人がいたほどです。

 大きくブレイクしたのは、「M10」と同じ時期に始めた、YTVの深夜番組「たかじんnoばぁ~」からだったと思います。こちらも同じ深夜番組で、たしか0時から1時までの生放送だったと思います。1500万円もかけたバーに、世界中から取り寄せた200種の酒や、本職のバーテンダーまで揃えた中で、マスターのたかじんさん、マネージャー役のトミーズ雅君が、客としてやって来たゲストと本物の酒を飲みながらトークをするというものです。放送できない発言には「ガオー」という編集音が入り、口元には「ガオー」というテロップが貼られるようになっていました。お約束のトークではない、型破りなトークが受け、94年1月15日の放送では深夜にもかかわらず、25%の視聴率を上げる人気番組となりました。

 その後、東京ではNTVが93年4月から、名古屋ではその1年後にCTVがネットしたことや、ポリスターからリリースした「東京」が60万枚のセールスを記録したこともあって知られるようになったのですが、札幌ではテレビのネットがなかったということもあって、顔が売れておらず、吉本新喜劇のポット君・帯谷孝史さんと間違われてショックを受けていたみたいですね。

事件のきっかけとなった「味の素」

 

「たかじんnoばぁ~」のDVD

 

「マスター」のたかじんさんと、「マネージャー役」のトミーズ雅君

 

 

 

 

 

そっくりです

 

帯谷孝史さん