木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 また、この92年という年は吉本興業にとって、吉本吉兵衛・せい夫妻が、天満宮裏の第二文芸館で寄席経営を始めて以来、ちょうど80年を迎える大きな節目となった年でもありました。10月8日には、大阪の全日空ホテルで、盛大なパーティが開かれ、前年に亡き林正之助さんからバトンを引き継がれた、中邨秀雄社長体制を内外にアピールする契機ともなったのです。もし、私の入院が当初の予定通り、あと1週間延びていたら、この大事な時に間に合わなかったかもしれません。あらためて、融通の利く加藤院長と交渉しておいて、本当に良かったと思いましたね。

 これに併せて社史も発刊され、編集委員には、「考える人」の冨井善則さんや、私が京都花月時代に制作部への異動を直訴した、当時の人事課長だった亀田泰男さん、広報部の竹中功君の名前が記され、表紙には、私の最初の勤務地・京都花月の支配人だった、達筆で知られた松久茂さんの手によって、「吉本八十年の歩み」という金色の文字が刻まれていました。284ページに亘るこの力作は、会社の歴史など、ろくに知らないままに入社をした私にとっては、先人たちの足跡を学ぶ貴重な資料となりました。それと同時に、我々が未だ、先人たちの達成された域に及んでいないという現実にも気付かされてしまいました。この会社は、すでに1933年には、映画製作に乗り出して、翌34年には、大日本野球団(現読売巨人軍)の設立にも参加していました。その上、全国に47館もの劇場を構え、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄といった当時の5大スターの他に、1300人にも上る芸人さんを抱えていたといいますから、すでに日本のエンターテインメント・シーンの中では、結構メジャーな存在でもあったのです。

 とはいえ、いつまでも、藤沢周平さんの「残日録」に書かれた三屋清左衛門のように、「未だ遠し・・・」と沈んでばかりいるわけにもいきません。前を向いて、中邨社長のもとで、新しい吉本を築いていかねばならないのです。そのころ、少しばかり凝っていた「クラブ活動と韓国旅行もしばらくは自粛して、仕事に励まねば!」と固く心に誓った、・・・と思ったのですが、当時の手帳を繰ってみると、夕刻以降、なぜか新地や銀座のクラブ名が記されています。きっと、無理をして、病み上がり身でありながら、会社のために夜遅くまで打ち合わせを重ねていたのでしょうね。

 10月23日、うめだ花月シアターは、(追加した18公演を加えた)全71公演を好評のうちに終え、93年1月6日から始める次回作、「星の星の星娘」の準備に入ることになりました。プロデューサーは大崎君、作・演出はかわら長介さん、キャストは新喜劇の島田珠代さん、北新地「おだまり」のデラックスなピーコママ、そしてもう一人が「ナニワの雪だるま」の異名をとる、おとめ座、O型、心身ともに至って健康な入社3年目の女性社員・大木里織君という異色の取り合わせでした 。

当時の中邨秀雄社長

 

松久茂さんの達筆な字で書かれた「吉本八十年の歩み」の表紙

 

「星の星の星娘」の企画書

 

島田珠代さん

 

「おだまり」のピーコママ

 

「ナニワの雪だるま」こと大木里織君

 

若かりし頃の大木里織君