木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 翌89年12月には福岡に事務所を作りました。名古屋と同様、九州の中心・福岡に事務所を作り、九州マーケットを抑えようということです。特に当時は、86年にオープンした九州最大のディスコ、「マリアクラブ」が隆盛を誇っていて、週末には九州全域から若者たちが屈指の人気スポットを訪れるため、鹿児島本線の特急列車「つばめ」や長崎本線の特急「かもめ」に乗って集まり、「ツバメ族」や「カモメ族」なる言葉まで生まれていたほどでした。通りの名も「天神万町」から「親不孝通り」に変わったのですから、かなりのインパクトを与えたということです。福岡は単に人口が多いというばかりではなく、若者たちを吸引する魅力に溢れた街でもあったのです。

 とはいえ、当初はそんな若者を吸収することもなく、しばらくは、舞鶴に構えた事務所をベースに、築港にある温泉劇場などのイベントや、地元局への既存タレントの売り込みを図るなど地味な活動を営々と続けてはいたのですが、ディスコブームがやや下火になった後の93年、下川端町に大型商業施設「博多リバレイン」や、「キャナルシティ」がオープンして再び活況を呈するようになったのを機に、99年、博多駅に隣接した福岡交通センターに事務所を移し、福岡111劇場(のちにゴールデン劇場に改称)を併設して以降、地元タレントの育成に努めるようになり、今東京でも活躍している華丸・大吉はじめ多くのタレントを輩出するようになりました。そのきっかけをつくったのが、当時の責任者、鹿児島出身の、「切符が下に・・・」事件で名をはせた、あの玉利君だったのです。

 開放的で、明るく、祭り好き、そんな福岡のラテン的な気質が合ったのか、玉利君は切符を列車の下に落とすこともなく、局の人ばかりか、溝江建設の社長など地元企業の方にも愛されていました。開放的と言えば福岡という地名も、秀吉の軍師黒田官兵衛の嫡男・初代藩主の黒田長政が出身地の備前国福岡に因んで付けたと言われますし、東京の赤坂や白金、京都の祇園や舞鶴という地名もあります。名物の明太子も、「ふくや」の創業者・川原俊夫さんが、少年期を過ごした釜山で食した、たらこのキムチ漬を進化させたものだといいます。(因みにかの国では助惣鱈のことを明太・ミョンテというそうです)、東京までの距離が886kmに対して、上海までが879km、釜山までが218km、福岡を中心に考えれば東京よりも、上海や釜山の方が近いのです。そうしてこの地は、昔からアジア大陸との交流の窓口として栄えてきたのですから、自ずと外に開かれた気質が醸成されてきたということなのでしょう。そういえば博多名物の那珂川沿いに広がる屋台も、韓国で見た風景に似ている気がします。「きっとうまくいく」、そう直感した福岡は、事務所を開設した他のどの地域よりも多くのタレントを輩出するようになりました。

特急つばめ

 

特急かもめ

 

伝説のマリアクラブ

 

吉本111劇場

 

福岡交通センタービル

 

中洲の屋台風景

 

初代藩主となる嫡男・黒田長政

 

ふくや創業者・川原俊夫さん