木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 変えなければならないと思ったことは、もう1つありました。87年3月に京都花月が閉館、88年なんば花月が閉館され、代わってなんばグランド花月がオープンしたものの、吉本の演芸場は従来の3館体制から2館体制に減少していました。当然、2丁目劇場に出ていない、既存の芸人さんたちの芸を披露する場も3割以上減少することになります。舞台を中心に活躍している人たちにとっては切実な問題です。いや、それは、テレビやラジオで活躍している人たちにとっても同様でした。お客様の前で芸を披露して、生の反応をいただくことは、自分たちの芸を磨く何よりのモチベーションにもなるからです。

 そんな時に、ふと閃いたのです。それなら、「プログラムの変更を1週間単位にすればいいのでは?」と。明治以来、寄席の出番は上席・中席・下席と10日単位でプログラムを変えるものと決まっていて(東京の寄席では未だにこのままですが)、当時の花月劇場もそれを踏襲していたのです。そのために新喜劇をテレビ中継の本数の月4本に合わせるため、「特プロ」と称して、何れかの週の半ばに徹夜稽古をして、もう1本別バージョンの芝居に変えているのを見ていて、「なんて面倒なことを」と思っていたのです。「今どき、10日単位で物事が動くことなんてない。カレンダーだって1週間単位だし」。それに週毎にプログラムを変えれば、1出番当たり13組の芸人さんが出るとして、×4週×2館で104組、従来の3館体制の117組には及ばないものの、9割近くをカバーできることになります。さっそく上申をしたものの、「4月17日スタートなんて、ポスター面が悪い」とかなんとか言って、なかなか判断が下りてきません。それも道理で皆が矢面に立つことを躊躇していたのです。

 何せ林会長は、59年3月1日、梅田花月を映画館から演芸場に改装して「吉本ヴァラエティ」を始めた初日、600人の客席に17人しか入らなかったのを見て、劇場再開を主導した八田さんや中邨さんに、「お前ら、吉本をつぶす気か!腹を切れ!」と叫んだ人です。幸いMBSのテレビ中継もあって、翌年の1月2日には3,500人が入る人気館となって事なきを得たのですが、その恐ろしさは代々の社員に語り継がれていました。ただ、いつまでたっても結論が出ないので、さすがに、これは会長に直訴するしかないと思ってはいたのですが、それではルール違反になってしまうという思いもあって、悶々と過ごしていたある日、林会長の秘書の方から、「お呼びです」との声がかかりました。多分、何かお小言を頂戴したとは思いますが、ひと段落したところで、かねてからの腹案を上申すると、即座に「いいんじゃないか、そうしなさい」と言っていただき、ようやく実行に移すことができました。そういえば、林会長は新喜劇を改革したときも、「やめろ」とは一言もおっしゃらず、ただ「騒々しいが、何かやっとるらしいな」と言われただけでした。中には窮状を訴えた方もいらっしゃったかもしれませんが、その声が我々の元に届くことは決してありませんでした。

 そんな、林会長も、健康のためと言って90歳で禁煙をされ、2年後に、お亡くなりになりました。そんなことなら、いっそ禁煙などされず、そのままにされていれば、もっと長生きをされていたのではないかとさえ思いましたね。もし私が「腹を切れ!」と言われていたらどうしていたでしょうね?

単位を変えるのは大変です

 

 

こんな風から

 

 

こんな風に変わりました