木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 意外なところでチャンスが開けました。家に帰って何気なく妻にそんな悩みを打ち明けたところ、「私知ってるよ!大幸さんやろ」って言うのです。あんまり気安く「ダイコウさん」を連発するので聞くと、むかし京都時代にフォーク仲間と友達になって、そのうちの一人が長戸さんだというのです。「連絡をとってみる」という彼女の言葉を半信半疑ながら待っていると、なんと長戸さんが会ってくれるというのです。さっそく六本木にあるビーイングまで出向きました。気さくに招き入れられた部屋で趣旨を説明すると、「こんな感じかな?」とギターを手にメロディーを奏でてくれました。滋賀県生まれということで新喜劇への理解があったということかもしれません。そして出来上がったのが92年からエンディング曲として使った「エクスタシー」という曲なのです。

 妻の縁がきっかけでといえば、もう一つあります。90年に入ってからは、アメリカ、それもどちらかというとロスアンゼルスより、ニューヨークへ旅する機会が増えたのですが、その都度世話になっていたのが、現地でOTSサービスという旅行代理店をやっているチャーリー小林さんでした。彼も妻とは京都のフォーク時代からの友達で、何度か食事を共にするうちにいつも、「ニューヨークで新喜劇やれませんかね?みんな日本文化に飢えてますよ」と言っていたのです。初めの頃は適当に聞き流していたのですが、そのうち彼の口調が「絶対チケットは売りますから」と熱を帯びてきたのです。「そうか!東京をやったら、次はニューヨークしかないな」と思うようになりました。ラスベガスではなく、どうしてもショービジネスのど真ん中、ブロードウェイのあるニューヨークでなければならなかったのです。

 とても入場料だけではペイしないから、テレビ番組はもちろんのこと、チャーリーの力で航空会社のタイアップも取らなきゃなりません。日本からのツアーも・・・などと話は進んでいき、現地のコーディネートは彼に任せて準備を整えることにしました。

 96年12月14日ニューヨークへ飛び、ランチミーティングの後、長島領事と会い、ANAのNYオフィスで西田セールスマネージャー、公演場所のタウンホールで、ローレンス・ザッカー支配人に会いました。本当はカーネギーホールでやりたかったのですが、舞台に釘を打ってはダメということで断念をしたのです。とは言え、かつて、ルイ・アームストロングやボブ・ディランのライブ収録が行われた会場に異存があるはずもなく、ここに決めたのですが、そのあとで、お世話になっているMBSの北米支局も訪ねましたね。後に大阪市長になられた平松支局長から温かく出迎えていただきました。アシスタントの女性がすでに退社されていて、自らお茶を入れていただいたのを憶えています。

 翌97年3月15日、たった2回だけの公演でしたが、出演者の心配をよそに、普段ショウを見慣れている満員のお客様の反応は、日本以上に盛り上がりましたね。久しぶりに新喜劇に参加された花紀さんや寛平さんも含め、出演した皆が客席の反応の良さに普段以上の力を発揮していたように思います。歌舞伎や文楽と違って、皆さんが、理屈抜きに笑える新喜劇を楽しんでおられたように思えました。私にとってそれ以上に嬉しかったのは、あのアブドラ―・ザ・ブッチャーが、島木譲二さんと共にカンカンヘッドをやってくれたことです。その昔、前日にジャイアント馬場さんと流血の死闘をしたブッチャーが、翌朝、プラザホテルのパントリーで仲良く談笑しながら、食事をしているのを見て、「一体、前夜のあれは何だったの?」と疑問を抱いて以来の再会だったのですから。

 

 

コーディネート役のチャーリー小林さんの名刺

 

 

フグをベースに再現したチャーリー小林さんの顔

 

 

公演場所となったタウンホール

 

 

平松さんのアナウンサー時代

 

 

大阪市長にもなられました

 

 

ツアーも募集していました

 

NY進出を報道する新聞各紙

 

 

つぶらな瞳のブッチャー