木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 「どうしても、寛平さんの吉本を辞める意思は覆りそうにもありません」そんな報告を受けて、何としても説得しなければと、ABCの向かいにあるプラザホテルへ向かったのは4月3日のことでした。生放送の「ポップ対歌謡曲」を終えて現れた彼の「どうしても吉本を辞めて東京へ行きたい」という言葉の背景に、「新喜劇は好きだけれど、このまま残っていても将来の展望が見えない」ということではないかと感じた私は、説得するのを諦めて、「それなら、吉本を辞めないで東京事務所の所属なればいいのでは?」と逆に提案してみました。おかげで彼は吉本に残ることにはなったのですが、とは言え新喜劇から彼がいなくなるということは大きなダメージであることは確かです。

 振り返ればこの年は、1959年3月梅田花月オープン時に「吉本ヴァラエティ」として始めた新喜劇が、30年を迎えた年でもあったのです。漫才や落語に松竹のようなスターがいない劇場を支えてくれた新喜劇も、ラジオの深夜放送に端を発した「ヤングおー!おー!」や、「漫才ブーム」で多くのスタータレントを生み出し、観客の嗜好も変化しつつあったこの時代には、必ずしもフィットしないコンテンツと化していたのです。

 中堅クラスの相次ぐリタイアもあって組織の活性化も進まず、漫才や落語の人たちと違って外の風に当たることもなく、「新喜劇は別」と隔離された環境の中で日々を過ごしているうちに、いつの間にかガラパゴス化していたと言っていいのかもしれません。いつものように、いつものストーリーを、いつもの人たちが演じるだけでは、もう通用しなくなっていたのです。ましてそこから、人気の間寛平さんがいなくなれば、どうなるかは目に見えています。ライバル視していたあの松竹新喜劇でさえ、寛美さんが健在の中にあっても観客動員に陰りが見えていたのですから。

 新喜劇のメンバーの平均年齢を調べると、男性が45・6歳、女性が35・6歳でした。これは何としても「10歳くらいは下げないと」と思いました。でないと、若い人たちに見てもらえないと思ったのです。テレビサイズの45分に合わせた舞台でやれる芝居には制約があっても、メンバーさえ若返れば、チャンスの流動性も高まり、「皆で!」「一緒に!」「熱く!」をモットーにする「ふるさときゃらばん」のように、人々に受け入れてもらえるコンテンツに蘇るのではないかと思うようになったのです。間寛平さんの東京行が、決断の後押しをしてくれたと言っていいのかもしれません。何としてもこの「マイナスの状況をプラスに転じなければ!」との思いでしたね。

若かりし頃の間寛平さん