木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 たしかに、「ヤングおー!おー!」や「漫才ブーム」のおかげもあって、舞台に立つことのない明石家さんまさんや、島田紳助さんを除いて、落語では笑福亭仁鶴さんや桂三枝さんをはじめ、月亭八方、桂きん枝、桂文珍さん、漫才では横山やすし・西川きよしさん以下、コメディNo1、中田カウス・ボタン、オール阪神・巨人、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、今いくよ・くるよ、宮川大助・花子さんなど、多士済々のメンバーたちが揃うようになって、充実はしてきたのですが、といってこの人たちが毎日劇場に出演をするわけではありません。いくら、お目当ての芸人さんたちが出るときは来られても、そうでない日に来られないのでは、安定性を欠くのです。ましてテレビ局から「是非とも!」と声のかかる人たちにおいては尚更のことです。では、「毎日劇場で演っているものは何か?」と考えると、やはり定番のメニューを強化するしかないのです。「落語や漫才のメンバーが強い今こそ、新喜劇に手を付けないといけないのではないか」と思うようになりました。ただ、ここに手を付けるとなると、相当な覚悟をもってかからなきゃいけないだろうということもあって、なかなか踏ん切りがつかず悶々とした日々を過ごしていました。

 まずは、「実態を把握しなければ!」と、時間がある限り新喜劇を観たり、それとなくメンバーの行動を観察したりしていると、メンバーのほとんどが、新喜劇の舞台が始まる直前に楽屋に入り、1回目の公演が終わるとそのまま楽屋でメンバー同士で麻雀などをし、2回目の公演が終了した後は、(総てがそういうわけではありませんが)仲間同士で飲みに行くというパターンが多かったように思います。まるで「社会の風が入っていなくて、自分たちの世界だけで日々のルーティンを完結させていたのです。落語や漫才の人たちが、自分たちだけでお客さんと対峙して、ネタをブラッシュアップしているのとは随分隔たりがあることに驚きました。おまけにこの人たちは、仕事をしなければ収入のない落語や漫才の人と違って、頑張った人もそうでない人も、多少の差はあっても、毎月一定の額を保証される給料制でもあったのです。「これじゃサラリーマン化するのも無理はないな、いっそ楽屋にタイムカードでも置けばいいのに」とさえ思いましたね。

 カエルを熱湯の中に入れると驚いて飛び出すけれど、常温の水に入れて徐々に熱すると、その温度変化に慣れていき、生命の危機と気づかずにゆで上がってしまうという、「ゆでガエル現象」に陥っていたのです。新喜劇の人たちをカエルに例えるのは如何かと思いますが「熱湯にあたるものは何か?」、試行錯誤の旅が始まりました。

いい湯だなー

 

 

 

 

 

べたなぎ状態

 

 

 

 

 

 

 

 

と、言うから

 

 

まずは、これでいってみるか!

 

 

HISTORY

第話

 6月15日に舶来寄席も終り、一息ついた頃でした。「アメリカン・バラエティ・バン」でお世話になった作家の高平哲郎さんから、「農村を舞台にしたミュージカル劇団があるから、一度見ては?」というご連絡をいただいて、「じゃ、ぜひ!」と返したものの、実際に見ることはなく、そのままになっていました。ブロードウェイやロンドンでミュージカルを見ることはあっても、日本のミュージカルには全く興味がなかったのです。正確に言うと、たった一度だけ見たことはあったのですが、日本語で話していた人間がそのまま進行をせずに、いきなり歌に入ってしまう違和感に耐えられなかったのです。しかもラウル・シャニュイ子爵やムッシュー・アンドレって、「あんた、どこから見ても日本人やろっ!」って思ってしまったのです。

 そんなトラウマもあってか、高平さんからのお話をすっかり忘れていたのですが、再度ご連絡をいただいて、7月8日、避暑を兼ねてというより、むしろそちらがメインだったのですが、わざわざ札幌の地まで飛んで、北1条にある教育文化会館で「ムラは3・3・7拍子」という、農村を舞台にしたミュージカルを見たのです。「どうせ・・・」と思いながら見始めていたのですが、驚きました!いつの間にか芝居に魅せられていったのです。

 誰一人著名な人など出ていない舞台なのに、見ている方の心をとらえて離さないのです。終わった後は1100人の観客の皆がスタンディング・オベーション。それもよくあるように、決まり事としてのおざなりのものではなく、心から感動を共有したものでした。

 演技も決して優れたテクニックを備えているわけでもないのですが、そのひたむきな思いが、見ている者の心に刺さってくるのです。高校野球を見ていて、9回ツー・アウトに、ビハインド側の選手が、凡打に終わり、間に合わないと知りながらファーストにヘッド・スライディングをした時、「よくやったぞー!」とエールを送りたくなる思いとでも言えばいいのでしょうかね。

 顔が上気した観客たちとともに、出演者に見送られながら会館を後にしたのですが、そのあとに知人たちと訪ねた店の料理が、いつもに増して、おいしく感じられたのを憶えています。

「ムラは3・3・7拍子」のポスター

 

 

「ムラは3・3・7拍子」のステージ

 

 

こんなに動員しました

 

 

札幌市教育文化会館

 

 

主宰者で、作・演出の石塚克彦さん

 

 

創業メンバーとして作曲・編曲・演奏の他に

イラストやロゴデザインまで担当していた寺本建雄さん

 

 

女優の天城美枝さん

 

 

俳優の小山田錦司さん

 

 

HISTORY

第話

 もう少し、「ふるさときゃらばん」のことが知りたくなって、営業の田中一則さんと、プロデューサーの平塚順子さんに、東京でお会いしたのは7月22日のことでした。劇団そのものは83年に統一劇場から独立したばかりの若い劇団であること。制作部門では、「全員無名に徹する」ことをポリシーにしていて、主宰者・石塚克彦さん一人の才能に依存することなく、制作部内の皆で合議制を取っていること。舞台外では平等でも、役の上では技量によって競わせているので、メンバーのモチベーションは維持されているとのことでした。

 営業部門では買い取り公演と自主公演が凡そ半々で、買い取り公演の主催者捜しを徹底して行うため、大まかな日程が決まると、担当者が3~5カ月前に現地入りして、地域の市町村を訪ね、場所や主催者捜しをするそうです。どんな町でも最低30人には会い、キーマンを見つけ、実行委員会を立ち上げ、応援団を結成し、観客が動員される流れを作っていくのです。もちろん、実行委員会と言っても、素人さんばかりで、ノウハウもないため、営業部員がアドバイスをしながら、一緒に公演を作りあげていくといいます。

 総てが、吉本新喜劇に当てはまるわけではありませんが、公演を観たり、スタッフの方からお話を聞いた、「皆で!」「一緒に!」「熱く!」というキーワードが、後に新喜劇改革への動機の一因になったことは確かです。とはいえ、この年の10月には、名古屋事務所の開設、11月には木村一八君の事件などがあり、新喜劇には手を付けないまま年を越えることになりました。

 翌89年明けて8日、天皇が崩御され時代は昭和から平成へ移り、まさに激動の年となりました。4月に制作部長となり、冨井さんからの頚木も解け、「さぁこれから!」と思っていた私に降りかかってきた最初の大仕事は、飲酒事故を起こした横山さんへの解雇通告でした。積年の想いはあっても、やはりここは、断を下さざるを得ない出来事でした。続いてMBSの営業サイドから新喜劇の視聴率が低迷しているので、このままだと「番組の維持が難しいかも?」という情報や、間寛平さんが「吉本を辞めたい」と言っている情報などが、ここぞとばかりに入ってきました。トンネルを抜けたら、またトンネルだったようなものです。山陰の麒麟児・山中鹿之助は「神よ、我に七難八苦を与えたまえ!」と祈ったといいますが、あいにく私の宗とするところは、「七楽八幸を与えたまえ!」だったのです。ことを急がねばなりません。今一度、ふるさときゃらばんの「ムラは3・3・7拍子」を観るため、4月21日に読売文化ホールへ足を運ぶことにしました。前年札幌で初めて観た時に抱いた感動が揺らいでいないかどうかを、今一度確認しておきたかったのです。

田中一則さん

 

 

平塚順子さん

 

 

おっと、これは間違えました

 

 

時代は昭和から平成になりました

 

 

山中鹿之介

 

 

鹿之助の名言

 

 

HISTORY

第話

 「どうしても、寛平さんの吉本を辞める意思は覆りそうにもありません」そんな報告を受けて、何としても説得しなければと、ABCの向かいにあるプラザホテルへ向かったのは4月3日のことでした。生放送の「ポップ対歌謡曲」を終えて現れた彼の「どうしても吉本を辞めて東京へ行きたい」という言葉の背景に、「新喜劇は好きだけれど、このまま残っていても将来の展望が見えない」ということではないかと感じた私は、説得するのを諦めて、「それなら、吉本を辞めないで東京事務所の所属なればいいのでは?」と逆に提案してみました。おかげで彼は吉本に残ることにはなったのですが、とは言え新喜劇から彼がいなくなるということは大きなダメージであることは確かです。

 振り返ればこの年は、1959年3月梅田花月オープン時に「吉本ヴァラエティ」として始めた新喜劇が、30年を迎えた年でもあったのです。漫才や落語に松竹のようなスターがいない劇場を支えてくれた新喜劇も、ラジオの深夜放送に端を発した「ヤングおー!おー!」や、「漫才ブーム」で多くのスタータレントを生み出し、観客の嗜好も変化しつつあったこの時代には、必ずしもフィットしないコンテンツと化していたのです。

 中堅クラスの相次ぐリタイアもあって組織の活性化も進まず、漫才や落語の人たちと違って外の風に当たることもなく、「新喜劇は別」と隔離された環境の中で日々を過ごしているうちに、いつの間にかガラパゴス化していたと言っていいのかもしれません。いつものように、いつものストーリーを、いつもの人たちが演じるだけでは、もう通用しなくなっていたのです。ましてそこから、人気の間寛平さんがいなくなれば、どうなるかは目に見えています。ライバル視していたあの松竹新喜劇でさえ、寛美さんが健在の中にあっても観客動員に陰りが見えていたのですから。

 新喜劇のメンバーの平均年齢を調べると、男性が45・6歳、女性が35・6歳でした。これは何としても「10歳くらいは下げないと」と思いました。でないと、若い人たちに見てもらえないと思ったのです。テレビサイズの45分に合わせた舞台でやれる芝居には制約があっても、メンバーさえ若返れば、チャンスの流動性も高まり、「皆で!」「一緒に!」「熱く!」をモットーにする「ふるさときゃらばん」のように、人々に受け入れてもらえるコンテンツに蘇るのではないかと思うようになったのです。間寛平さんの東京行が、決断の後押しをしてくれたと言っていいのかもしれません。何としてもこの「マイナスの状況をプラスに転じなければ!」との思いでしたね。

若かりし頃の間寛平さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 こうして、新喜劇の改革を決意したのはいいのですが、問題は一体誰にこのプロジェクトを担ってもらうかということです。何せ大仕事です、とても一筋縄に事が運ぶとも思えません。もとより非難が自分に向くのは承知の上のこととは言え、現場の皆から怨嗟の的になっても耐えられるタフな人間でなくては到底耐えることはできません。「さて?」と考えた時、私の頭に浮かんだのはたった一人しかいなかったのです。そう大崎君、今の社長です。東京事務所のスタート時に共に上京し、大阪へ帰ってからは、ゼロから2丁目を立ち上げ、見事にダウンタウンを始め、新しいタレント達を世に送り出した男です。彼ならきっとこの困難な状況を突破することが出来るに違いないと思ったのです。

 「すべての仕事を投げうって、新喜劇の改革に取り組んで!」とは言ったものの、彼の心中は複雑なものがあったことは想像に難くありません。きっと、「せっかく2丁目がうまくいったら、またこれかよ!」という思いに駆られたことでしょう。でも、そんな心中はともかく、彼は、共に2丁目を立ち上げた中井君や、竹中君とYSP(吉本新喜劇改革プロジェクト)をたち上げ、「吉本新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」を主導してくれました。

 7月、テレビ中継をしていただいている、MBSの竹中文博制作局長と渡邊一雄制作部長には状況をご説明した上で、「新喜劇を解体し再出発する」旨をメンバー全員に告げ、8月6日に花紀京さんと岡八郎さんを除く、他のメンバー全員との個別面談を行うことにしました。ただ、花紀さんと、岡さんのお二人には敬意を表して、来ていただくのではなく、こちらからご説明に上がらねば、礼を失すると思ったのです。

 「大事は理を以て決し、小事は情を以て決す」という言葉がありますが、今にして思えば、当時の私に果たしてそれが出来ていたのか否か?至らぬところが多々あったのではないかと思います。もし何年かしてあの世でお目にかかることがあれば、お詫びをしなきゃいけないなと思っています。

 朝の10時から午後7時までかかった面談で、来ていただいたメンバーの方に伝えたのは、「新喜劇は危機に瀕している」「これからも存続させていくためには、いま全面リニューアルをするしかない」「これからは役者さんありきではなく、台本をベースにキャスティングしていく」「したがって、今までメインを張っていた人と言えど、通行人Aというケースもあるかもしれない」「それでも、やっていこうという人だけ残っていただけますか?」というお願いでした。

 数日後、岡さんから直接お電話をいただき、「こらぁ、殴られても仕方ないよな?」と覚悟を決めて梅田花月へ出向いたのですが、劇場近くの富国生命ビルの地下の喫茶店で、「そろそろ自分も卒業しようかと思う」と言っていただき、ホッと安堵の胸をなでおろしたのを憶えています。花紀京さんとは、直接お目にかかることはなかったのですが、人づてに「自分は前からそう思っていた」とのこと、いかにもあの人らしい気持の伝え方だなと得心しました。こうして花紀京さん、岡八郎さん、原哲男さん、船場太郎さん、山田スミ子さんらが退団をして、新喜劇は再び新しいスタートを切ることになるのです。とはいえ、この人たちは、吉本を辞めたということではなく、新喜劇というシステムから外れる、いわば、宝塚歌劇団でいう専科のような扱いになったのです。

「やめよッカナ?キャンペーン」のポスター

 

 

 

 

 

 

 

 

(イメージ)

 

 

HISTORY

第話

 岡八郎さんは、酒を飲まないと舞台に上がれないほどの、あがり症だったこともあって、アルコール依存症に陥り、その後胃がん、膵炎に陥り、あげく自宅で転倒したことによる脳挫傷に見舞われました。03年長女でゴスペル歌手の市岡裕子さんと共に、もう吉本を退社していた私の事務所までお越しになり、心機一転、「岡八郎」から「岡八朗」に改名されたのを機に2人でお書きになった、「アルコール依存症から脱出した八っちゃんの奮闘記」(マガジンハウス)をいただきました。05年肺炎による呼吸器不全のため亡くなりましたが、まだ67歳と早すぎる死でした。思えば昔、仕事の依頼をにべもなく断られたのは、そんな不器用な性格の故だったのかもしれませんね。

 花紀京さんとお目にかかったのも同じ03年のことでした。確か、北新地の「づぼら」という天ぷら屋さんだったと思います。私が知人と訪ねると、奥のカウンターに奥様と2人でお座りになっていて、私の顔を見るなり、笑顔で「よっ!」と会釈していただきました。確か前の年に脳腫瘍の摘出手術を受けてリハビリ中だったと思うのですが、お元気そうな様子を拝見して安心したのを憶えています。ところが、この年の5月、ご自宅で入浴中に低酸素脳症で意識不明になられて活動を休止されたまま、15年8月にお亡くなりになられました。

 そして、原哲男さん。83年、天王寺動物園でカバの赤ちゃんが誕生して、名前を一般公募したところ、「テツオ」という名前が選ばれたというエピソードがあるほど、「誰がカバやねん!」というギャグで名前を知られた人で、KTVはそのギャグにちなんで「誰がカバやねん、ロックンロールショー」という番組を始めたこともあったほどです。退団後も吉本のテレビ中継番組にも出演されたり、地方公演にも出ていただいたり、一方で藤田まことさんの「剣客商売」や「はぐれ刑事」などにも出演されていたのです、13年肺がんで亡くなりました。

 ご存命なのは船場太郎さんと山田スミ子さん。マヒナ・スターズの付き人から喜劇役者に転じた船場さんは、キャンペーンの後も残ったのですが、次第に脇にまわることが増えたため、91年に退団して、大阪市会議員に立候補して当選を果たし、6期24年間大阪市会議員を務め、03年には第99代の大阪市会議長を務めました。ABC「あっちこっち丁稚」でヒステリックなセリフを吐いて、前田五郎さんにビンタをかましていた山田スミ子さんは、以降もNHKの朝ドラや、10年間レギュラーを務めた「家政婦は見た」など各局のドラマに出演する一方で、2011年に氷川きよしさんの銭形平次で明治座に出られたように、舞台への出演もされていると聞いています。彼女は酒が強くて、飲めない私も何度かつき合わされたことがあるのですが、いつも「あんたは漫才師のマネージャーだから、芝居のことなど、何も分かってない!」と説教された挙句、爆睡している彼女を武庫之荘のマンションまで送って行ったのは2度や3度ではありませんでした。今となっては、ほろ苦い、でも懐かしい思い出です。

 

 

 

北新地の「づぼら」

 

 

 

 

 

カバのテツオくん

 

 

原哲男さん

 

大阪市会議員を6期24年にわたり務められた船場太郎さん

 

 

山田スミ子さん

 

HISTORY

第話

 歴史を振り返ると、この1989年という年は天皇のご崩御によって年号が平成に改まったばかりではなく、6月には中国で天安門事件、11月にはベルリンの壁崩壊と歴史的な事件が相次いで起こった、歴史的な転換期でもありました。日本でも、6月には国民的歌手と言われた美空ひばりさんが亡くなりましたし、86年から起こったバブル景気もこの年の10月には、38,915円と最高値を記録して、91年2月の崩壊に向かう兆しを見せ始めた年でもありました。

 「もし、来年の3月までに新喜劇をやっている梅田花月に、180,000人の客さんに来ていただけなかったら、新喜劇を辞めます」、そう宣言した「やめよッカナ⁉キャンペーン」を始めたのは10月のことでした。6カ月で180,000人と言えば1日に1,000人、結構ハードルの高い数字ではあったのですが、容易に達成可能な数字ではなく、「大丈夫かな?」と思われるくらいに高めの数字でなくては、関わっている者たちの覚悟が伝わらないと思ったのです。

 政治ネタの少ない大阪にとって、数少ないキラーコンテンツの阪神タイガースが、7月末の時点で首位の巨人に22ゲームもの大差をつけられ5位に低迷していたこともあってネタ枯れ気味、おかげで、マスコミは盛んにこのニュースを取り上げてくれました。もとはと言えば、吉本の私的な理由でしかないこの、「自分たちが子供のころから観ていた新喜劇がなくなるかも?」というキャンペーンに対して、「なくさないで!」という声が聞こえてくるようになりました。

 もちろん、賛同する声ばかりではなく、KTVの「ノックは無用」という生放送の番組では、上岡龍太郎さんから「小さな権力を振り回して!」と批判されたこともあります。上岡さんは、演者の立場からそう思われたのでしょうが、当事者でもないこの人に「生放送で一方的に批判されるのは心外!」と、多少大人げないとは思ったのですが、後日KTVを通じて、彼の事務所から詫び状を取ったこともありましたが、今思えば、こうした批判もまたキャンペーンの効果を後押ししてくれたのかもしれませんね。

 おかげで、梅田花月の入場者も徐々に増え、テレビの視聴率も回復の兆しを見せるようになった年の瀬の12月27日、MBSから「4月以降も新喜劇中継を継続する」との報をいただくことができ、目標数字の180,000人も翌90年2月に達成され、新喜劇は無事継続することになりました。目標でもあり、ライバルでもあった松竹新喜劇の藤山寛美さんは、87年に244カ月連続公演を達成された後、体調を崩され、90年の3月、肝硬変で入院、5月に亡くなりました。まだ、60歳、何とも早すぎる死でしたね。

ダメ虎

 

 

なくさないで という声も

 

 

批判もありました

 

 

やめよっかな ①

 

 

やめよっかな ②

 

 

やめよっかな ③

 

 

やめよっかな ④

 

 

+ と − はあるけれど

 

 

上って良かった

 

 

 

 

HISTORY

第話

 こうして新しくスタートを切った新喜劇ですが、ONを欠いたV9後の巨人のようなもので、当初こそ2丁目で台頭した今田耕司、東野幸治、130Rといったメンバーの加勢を得てはいたのですが、彼らがダウンタウンに次いで東上した後、90年8月15日には高槻市の摂津峡にある山水館で作家とスタッフで合宿をするなど、試行錯誤は続きました。95年ニューリーダーとして、内場勝則、辻本茂雄、石田靖の3人が自立するまで新喜劇を支えてくれたのは桑原和夫、チャーリー浜、池乃めだか、島木譲二、井上竜夫、中山美保、末成由美といった中堅・ベテランの人たちでした。この人たちが君臨するのではなく、若い人たちの支えとなってくれたからこそ、のちに藤井隆、島田珠代、山田花子といった有望株が現れた時に花が咲いたのです。

 91年には初の東京公演を成功させ、9月にNHKで朝10時から夜10時まで、NGKから新喜劇のメイキング版、12時間衛星生中継もやりました。アリナミンVドリンクのCMで、当時ハリウッドの中で一番高いと言われていたアーノルド・シュワルツェネッガーと、新喜劇のメンバーが共演したのもこの年でした。噂ではCM製作費の半分を彼が持っていったといいますから、新喜劇全員のギャラを足しても、とうてい彼の足元にも及ばなかったと思います。中でも、浜裕二から名前を変えたチャーリー浜さんは、90年、91年と紅白歌合戦に応援団として連続出場、91年は第8回流行語大賞(自由国民社)に輝きました。たしか、当時ブレイク中のアメリカのダンスミュージシャン、MCハマーの東京ドーム公演に、ただ「ハマつながり」というだけで花束を持っていったこともありました。相手はきっと「WHO?」といったと思いますが、話題作りのための努力は怠りませんでした。

 もう一つ、気になっていたことがありました。例の「ホンワカパッパ」で始まる定番のテーマソングです。もとはと言えば、ABCがなんば花月から新喜劇の中継を始めるときに、ディレクターだった石田健一郎さんが選曲したのが、1918年アメリカのレオ・ウッドが作曲し、1954年にトロンボーン奏者のピー・ウィー・ハントがアレンジして発表していた「Somebody Stole My Gal」いう曲で、いつしかこれが新喜劇の定番になっていったということなのですが、せっかく新しいスタートを切ったのだから、これも新しい曲に変えられないかと思ったのです。そんな時、漠然とテレビを見ていると曲名こそわからないものの、「タッタタラリラ、ピーヒャラピーヒャラ」というフレーズが耳に入ってきて、調べると90年にオリコン・シングルチャート1位に輝いた、ちびまる子ちゃんのエンディングテーマ曲でもある、B.B.クイーンズの「踊るポンポコリン」だということが分かりました。プロデュースしたのは?と聞くと長戸大幸さん、なんでも当時音楽業界では、曲をヒットさせるにはK・D・D」という言葉があって、「カラオケで歌われる、ドラマの主題歌になる、長戸大幸が作る」と言われていたほどの人らしいのです。そんな人に頼みたいのはやまやまだったのですが、全くツテがありません。知り合いに聞いても入ってくるのは「なかなか人に合わないらしい」という情報ばかり。さて、どうしたものか?と悩んでいると・・・

アリナミンVドリンク CMのワンシーン

 

 

M.C.ハマー

 

 

ピー・ウィー・ハント

 

 

B.B.クイーンズの「踊るポンポコリン」

 

 

若かりし頃の長戸大幸さん

 

 

HISTORY

第話

 意外なところでチャンスが開けました。家に帰って何気なく妻にそんな悩みを打ち明けたところ、「私知ってるよ!大幸さんやろ」って言うのです。あんまり気安く「ダイコウさん」を連発するので聞くと、むかし京都時代にフォーク仲間と友達になって、そのうちの一人が長戸さんだというのです。「連絡をとってみる」という彼女の言葉を半信半疑ながら待っていると、なんと長戸さんが会ってくれるというのです。さっそく六本木にあるビーイングまで出向きました。気さくに招き入れられた部屋で趣旨を説明すると、「こんな感じかな?」とギターを手にメロディーを奏でてくれました。滋賀県生まれということで新喜劇への理解があったということかもしれません。そして出来上がったのが92年からエンディング曲として使った「エクスタシー」という曲なのです。

 妻の縁がきっかけでといえば、もう一つあります。90年に入ってからは、アメリカ、それもどちらかというとロスアンゼルスより、ニューヨークへ旅する機会が増えたのですが、その都度世話になっていたのが、現地でOTSサービスという旅行代理店をやっているチャーリー小林さんでした。彼も妻とは京都のフォーク時代からの友達で、何度か食事を共にするうちにいつも、「ニューヨークで新喜劇やれませんかね?みんな日本文化に飢えてますよ」と言っていたのです。初めの頃は適当に聞き流していたのですが、そのうち彼の口調が「絶対チケットは売りますから」と熱を帯びてきたのです。「そうか!東京をやったら、次はニューヨークしかないな」と思うようになりました。ラスベガスではなく、どうしてもショービジネスのど真ん中、ブロードウェイのあるニューヨークでなければならなかったのです。

 とても入場料だけではペイしないから、テレビ番組はもちろんのこと、チャーリーの力で航空会社のタイアップも取らなきゃなりません。日本からのツアーも・・・などと話は進んでいき、現地のコーディネートは彼に任せて準備を整えることにしました。

 96年12月14日ニューヨークへ飛び、ランチミーティングの後、長島領事と会い、ANAのNYオフィスで西田セールスマネージャー、公演場所のタウンホールで、ローレンス・ザッカー支配人に会いました。本当はカーネギーホールでやりたかったのですが、舞台に釘を打ってはダメということで断念をしたのです。とは言え、かつて、ルイ・アームストロングやボブ・ディランのライブ収録が行われた会場に異存があるはずもなく、ここに決めたのですが、そのあとで、お世話になっているMBSの北米支局も訪ねましたね。後に大阪市長になられた平松支局長から温かく出迎えていただきました。アシスタントの女性がすでに退社されていて、自らお茶を入れていただいたのを憶えています。

 翌97年3月15日、たった2回だけの公演でしたが、出演者の心配をよそに、普段ショウを見慣れている満員のお客様の反応は、日本以上に盛り上がりましたね。久しぶりに新喜劇に参加された花紀さんや寛平さんも含め、出演した皆が客席の反応の良さに普段以上の力を発揮していたように思います。歌舞伎や文楽と違って、皆さんが、理屈抜きに笑える新喜劇を楽しんでおられたように思えました。私にとってそれ以上に嬉しかったのは、あのアブドラ―・ザ・ブッチャーが、島木譲二さんと共にカンカンヘッドをやってくれたことです。その昔、前日にジャイアント馬場さんと流血の死闘をしたブッチャーが、翌朝、プラザホテルのパントリーで仲良く談笑しながら、食事をしているのを見て、「一体、前夜のあれは何だったの?」と疑問を抱いて以来の再会だったのですから。

 

 

コーディネート役のチャーリー小林さんの名刺

 

 

フグをベースに再現したチャーリー小林さんの顔

 

 

公演場所となったタウンホール

 

 

平松さんのアナウンサー時代

 

 

大阪市長にもなられました

 

 

ツアーも募集していました

 

NY進出を報道する新聞各紙

 

 

つぶらな瞳のブッチャー

 

 

HISTORY

第話

 東京公演や、ニューヨーク公演の客席を見て感じたことは、それまで、どちらかというと異郷の地で肩身の狭い思いをしながら過ごしてきた関西人が、「こんなおもろいもん、俺達子供のころから見とったんやで!」と、晴れて公の場で優越感を感じられる場でもあったということです。「見とってみ、寛平ちゃんと池乃めだかちゃんが登場してきたら、この先はこうなって、最後はこうなるんや」と、したり顔で共に来た友人たちに解説する姿がここかしこに見受けられました。東京の関西人向けに、新喜劇のビデオが欲しいと発案して、自ら企画を売り込んできた、みうらじゅんさんの「吉本新喜劇ギャグ100連発」も発売されました。

 こうして、新喜劇はまた復活を果たしていくのですが、当時を支えてくれた島木譲二さんや、井上竜夫さんが相次いで亡くなったのは寂しい限りです。島木さんの「しまった、しまった、島倉千代子、こまった、こまった、こまどり姉妹」や、井上竜夫さんの「お邪魔しまんにゃわ」という定番のギャグが今でも懐かしく思い出されます。そうそう、島木さんは89年、ハリウッド映画「ブラックレイン」のオーディション時、パチパチパンチを披露して、リドリー・スコット監督から「ナイスボーイ」と称賛され、キャスティングをしてもらったというエピソードもありましたね。

 一方の松竹新喜劇は、90年藤山寛美さんの死と共に衰退の一途をたどりました、寛美さんの存在が余りにも大きすぎて、「寛美さん=松竹新喜劇」になってしまっていたのでしょうね。松竹と吉本、作風は違っても、やはり2つの新喜劇が併存して、切磋琢磨していくことがお互いにとってもいいのです。天外さんを中心とした松竹新喜劇が一日も早く復活して、また双方が競う日が来ることを祈っています。

 さて、間寛平さんです。89年、家族を残して一大決意のもと東京へ出たのはいいのですが、いきなりレギュラーを持てるほど甘くはありません。萩本欽一さんに相談してアドバイスをいただいたり、B&B洋七君とコンビを組んだりしていたのですが、90年10月からNTVの「マジカル頭脳パワー!!」、92年からは「いつみても波瀾万丈」のレギュラーに起用される一方で、映画「ファンキー・モンキー・ティーチャー」シリーズの主役を務めました。偉かったのは当時マネージャーを務めていた比企啓之君です。間さんが健康のためにマラソンをやっていたことに注目をして、「24時間テレビ チャリティマラソン」の初代ランナーに起用される道を拓きました。「24時間テレビ」から間さんに、深夜10分間の出演オファーがあった際、「10分と言わず24時間走らせましょうよ!」と彼がNTVに提案したことがきっかけとなって、この企画が生まれたのです。以降、間さんはマラソンから転じて鉄人レースにも参加するようになり、ついには2008年、地球を1周するアース・マラソンへとつながるのですが、この転換期を主導し、今までとは違う間寛平像を確立したのが彼なのです。もちろん、マネージャーという仕事は、自分の担当するタレントさんに惚れなければやっていけないのですが、惚れる余り、いつしか同化をしてしまい、客観性を失っていくケースがありがちな中で、「商品としての間寛平さん」の新たな側面を切り拓いた彼の手腕は見事なものであったと思います。私も出席させていただいた結婚式の席上で、新婦がにこやかな表情を浮かべている横で、大泣きをしていた彼の姿を今でも憶えています。

「ブラックレイン」のワンシーン

 

 

島倉千代子さん

 

 

こまどり姉妹

 

 

こちらは、てまどり姉妹

 

 

映画「ファンキー・モンキー・ティーチャー」の主役を務めた間寛平さん

 

 

NTV「24時間テレビ チャリティマラソン」の初代ランナーも務めました

 

 

比企君とともにツーショット