木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 たしかに当時は、漫才でもなく、落語でもなく、新喜劇こそが「吉本の看板を背負っている」という自負に溢れていたように思います。劇場にお越しになるお客様も、漫才や落語を見てそれなりに楽しんではいらっしゃるのですが、最後に新喜劇を見て満足してお帰りになるというのがごく当たり前のパターンになっていました。私が新人だったこ頃、岡八郎さんに、西川きよしさんが主役の「ABC学園」に出演をお願いして、にべもなく断られたのも、(これは私の考えですが)「新喜劇を新人で辞めて漫才に転向していった人間の番組になど出られるか」と思われたのかもしれません。

 ところが、世間の評価では「吉本新喜劇は確かに面白いけれど、同じ新喜劇ならやっぱり松竹新喜劇の方が芝居としては上等だ」と見られていたのです。もっとも、中座というホームグラウンドで、芝居だけを3本演じる松竹新喜劇と、漫才・落語・アクロバットと同じ舞台でやる吉本新喜劇を比較すること自体ナンセンスなのですが、これはどうにも悔しかったですね。漫才のテンポに慣れたお客さんに、情の入った芝居を見せたところで、耐えていただけるわけはありません。おまけに、映画館を改装した花月劇場の舞台には奥行がないため、立体的なセットの建て込みもできません。しかも、トリを務める漫才や落語の舞台が終わった後、間延びがしないように素早いセットチェンジも求められるのです。当然、場面も限られ、45分や60分というテレビ放送のサイズに合わせるには、どうしても1幕2場で完結をしなければならないのです。おまけに、スポンサー事情もあって人が死ぬシーンがあってはならないのです。この、性格の違う2つを比較するということはまるで、大相撲とプロレスを比べるようなものなのですが、私にはどうにもそれが悔しく、寛美さんのマネージャーにお会いした時、「きっといつか、抜いてみせますよ!」なんて生意気なことを口走ったこともありましたね。

 ところが、88年4月、私が本社に復帰して、8年ぶりに見た新喜劇は、かつて私が見たものではありませんでした。花紀京、岡八郎、原哲男、船場太郎、山田スミ子さんといった人たちは健在だったのですが、次代を担うと目されていた、木村進さんは23歳で座長になって人気者になったものの、88年に脳内出血で倒れてリタイア、同じく24歳で座長になった間寛平さんも「ひらけ!チューリップ」でヒットを飛ばし、人気は出たのですが、79年に野球賭博で謹慎,アメマバッチで大借金と精彩を欠いていました。同様に期待されていた伴大吾さんも78年、谷しげるさんも79年、それぞれ借金を抱えて失踪をしていたのです。こうして、世代交代しようにも、担う人材を欠いたまま、私の目には、「昨日と同じような芝居を、今日も繰り返し演じていた」ように思えました。お客様は正直なもので、新喜劇のテーマソングが鳴ると席を立つような方までおられる有様でした。そして、87年には京都花月、88年にはなんば花月までが閉じられ、3チーム制はなくなり、新喜劇はただ梅田花月のみで演じられるまでにシュリンクをしていたのです。

山田スミ子さん

 

 

船場太郎さん

 

 

 

 

 

間寛平さん