木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 そして、同じ91年8月6日に、林会長の下で9年間社長を務められていた八田竹男さんも亡くなりました。まだ77歳でした。八田さんは、旧制北野中学を卒業した後、早稲田大学に入り、中学時代からの同級生であった森繁久彌さんと演劇活動に励んでいたのですが、中退をして戦前の吉本に入ります。当時の状況を記した「上方放送お笑い史」(読売新聞大阪本社文化部刊)によると、劇場の大半を焼失した吉本は、三和(現東京三菱UFJ)銀行から300万円の融資を受け、映画館から事業を再開させますが、58年テレビの台頭により、陰りの見えた映画事業に代わって、演芸界への復帰を林社長に強く進言をしたのがこの人でした。しかし、戦後の演芸界はすでに松竹が先行していて、中田ダイマル・ラケットさんらの人気者がすでに活躍していたので、それに対抗するために新しい喜劇を作って、梅田花月の中継をMBSに任せる独占契約を結ぶことにした立役者なのです。

 その功あって、八田さんは77年社長に就任されたのです、豪放磊落な林会長とは違って、温厚な表情の中に、カミソリのような鋭さを秘めておられる風情があって、芸人さんはもちろん、社員からも恐れられていました。私が入社1年目に京都花月に勤務していた頃、当時まだ制作担当の取締役だったこの人が、劇場に来られるという知らせが入った途端、皆が逃げて事務所がもぬけのカラになったことがありました。手にはいつも本を持っておられて、皆を叱咤するためかどうか、杖を持っておられた会長とは違った意味で、怖さのある人でした。

 また、一方で、厳しいばかりではなく、温かい一面を備えている人でもあり、そのお人柄は、八田さんを慕っていた月亭可朝さんが、八方、ハッピー、ハッチ、など自分の弟子に、八やハの字を付けていたというエピソードからも伺い知ることができると思います。後日、社長になられていた八田さんが、なんば花月の事務所へ来られて、たまたま居合わせた私が、劇場スタッフや西川のりおさんと共にお小言を頂戴しているときに、出前に来た吉本芸人御用達の「千とせ」という食堂のオヤジさんが容器を下げるため、「おお、八田やないか、久しぶりやなあ!」と事務所に入ってきたことがありました。それ以降も八田、八田を連発、こうなれば社長の権威も何もあったものではありません。聞けば、2人は幼馴染だったとのこと。と言って、我々がオヤジさんに直に注意するわけにもいかず、一同、笑いをじっとこらえていたのですが、説教を早々に切り上げて去って行かれた八田さんを見送りながら、居合わせた皆がこのオヤジさんに感謝したことは言うまでもありません。

 どちらかというと、パーティなどの晴れがましい席が嫌いで、あまり社交的な方ではなかった八田さんですが、戦後の吉本の発展の礎を築かれたという意味で、多大な功績を遺された方であったと言えると思います。そして、この八田さんが始められたのが「吉本ヴァラエティ」、後の「吉本新喜劇」だったというわけです。

 

 

 

演芸場としてスタートした梅田花月劇場

 

 

出前、と言っても こんなに担いではいませんでしたが・・・

 

 

吉本ヴァラエティ第1回のポスター

 

 

吉本ヴァラエティの舞台