木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 MANZAIブームは、師匠と弟子の関係を経て、初めて舞台デビューできるという従来のタレントの育成システムまで変えてしまいました。目敏い吉本興業はこの流れを見て、82年4月にNSC(ニュースタークリエーション)というタレント養成学校を立ち上げたのです。「養成期間1年、入学金3万円、1か月学費1万5千円、年齢16歳~22歳まで」という条件で募集して、240名の応募者の中から70名を選んで第1期生としてスタートさせたのです。初代校長を務めた冨井さんは後に、「漫才ブームが起こって開講を考えた。ブームで出た漫才師はセンスも違っていた、紳竜なんて、我々の考えていた漫才を超えていた。そこで、若いお客さんが欲している感覚の芸人を育てないとあかんと思った」と設立の動機を語っています。そして、この設立の動機に魂を入れたのが、東京から帰った大崎君だったのです。この1期生からダウンタウンやハイヒール、トミーズが生まれ、やがて86年、旧南海ホールを改装してできた心斎橋2丁目劇場を起点として多くのタレントを輩出していくことになったというわけです。

 心斎橋2丁目劇場も最初は「お笑い探検隊」というバラエティショーや、ダウンタウンを主役にしたコメディを月に1度の割合で上演するくらいだったのですが、次第に女子高校生たちが押し寄せ、開演前から列ができるほどの活況を呈するようになりました。プロデューサーとして劇場を仕切っていた大崎君の狙いは「アンチ吉本」「アンチ花月」。会社としては、ファームとして、花月劇場への登竜門と位置付けていたようですが、そんなヒエラルキーは、彼の思惑とは異なっていたようです。「革新は傍流から生まれる」といいますが、結果論でものを言えば、花月劇場という空間から、2丁目というガラパゴス島に隔離することによって、従来とは異なる種のタレントが進化した例といえるのかもしれません。2丁目劇場を大きく飛躍させたのは、MBSのウィークデイに放送された公開生番組「4時ですよーだ!」が始まった87年4月のことです。当時、私は東京にいて、NSCや2丁目劇場には関わっておらず、せいぜいMBSの制作幹部にレギュラー番組の実現をお願いしただけのことですが、「ヤングおー!おー!」といい、「4時ですよーだ!」といい、節目節目に吉本がMBSさんにお世話になってきたことがよくわかります。

 この年の10月31日、千日前に本社を移転するにあたって、新劇場なんばグランド花月では通常の杮落し興行に加えて、夜の公演をやるNGKシアターではロングラン公演をやることが決まり、東京で高見の見物を決め込んでいた私にも声が掛かったのです。「昼は冨井部長、夜はお前が担当しろ」というのです。冨井さんには田中君、私には大崎君が付くというシフトでした。「どうせなら、楽な昼間をやらせて!」とも思ったのですが、しんどい方を選ぶというのが習い性となっていた私に、断るという選択肢は残っていませんでした。1934年にニューヨークから、若き日のダニー・ケイもいたというマーカスレビュー団60人を招いて、日劇で45日間興行を打って、吉本の名を大いに高めた体験の故か否か解りませんが、外国からショウを呼べというのです。ただ、ロンドンやニューヨークでミュージカルを観たことはあっても、向こうに知り合いがいるわけでもない私一人でできる仕事ではありません。誰に相談すればいいのかと悩んだうえ、「やっぱりこの人だ」と思って相談したのがフジテレビの横澤さんでした。

 まずは正式のご依頼をということで、大阪本社から中邨副社長、林専務に上京していただき、2月16日に会食をしたのが朝日生命ビル14階の「吉祥」でした。その後、横澤さんからご連絡をいただき、「笑っていいとも」や「今夜は最高」の構成作家兼スーパーバイザーで、ニューヨークのショウビジネスにも詳しい高平哲郎さんと、高平さんの強い推薦で越路吹雪さんや、加山雄三さん、クレージーキャッツを手掛けた音楽ディレクターの渋谷森久さんを交えて、歌あり・踊りあり・笑いありの舞台で「アメリカでも見られないアメリカのショウがやってきた!」という企画の骨子が次第に固まっていきました。タイトルは「アメリカン・バラエティ・バン」。

心斎橋2丁目劇場

 

 

NSC1期生(ダウンタウン浜田・松本、銀次・政二、ハイヒールモモコ・リンゴ)

 

 

冨井さんとNSC1期生

 

 

            「4時ですよーだ!」

 

 

        「アメリカン・バラエティ・バン」