木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 飛翔を続けるさんまさんに触れれば、共に吉本を支えた同期生の紳助さんに触れないわけにはいきません。漫才ブームでニューウェーブの一翼を担った紳助さんは85年に竜介さんとのコンビを解散した後も、87年からNTVで和田アキ子さんと共に「歌のトップテン」の司会を務めたり、それなりに順調な活躍をしていたのですが、私にとっては、彼本来が持っている潜在能力から言うとやや物足りない思いをしていた時期でもありました。後になって考えれば、30歳を超えて、大人社会へのアンチテーゼとして売りにしてきたツッパリキャラから、大人のタレントに移行する、いわばモラトリアムともいうべき期間であったのかもしれません。

 そんな時です、朝日放送の和田省一さんから話があったのは。和田さんは同い年ではあったのですが、それまでラジオ局にいらして、「おはようパーソナリティ中村鋭一です」やその後の道上洋三さんの番組をされ、テレビ局に異動された87年からは報道局で夕方のテレビニュースの編集長をされていた人とあって、あまりお付き合いをしてこなかった方です。「そんな人が、いったい何故?」とも思ったのですが、「89年4月から、ABCの報道局とANBの情報局の共同制作で、日曜午前に1時間45分の生情報番組を立ち上げるので、その司会を紳助さんにお願いしたい」とのことでした。虚を突かれた形の私ですが、和田さんの「なぜ彼なのか」という真摯なお話を伺う内に、「一見、ミスマッチに思えるこの組み合わせが、もしかしたら彼の今後のタレント人生を変えるかもしれない」と思えてくるようになったのです。

 ところが、私以上に違和感を感じたのは、オファーを受けた紳助さん本人の方でした。「なんで報道色の強い情報番組の司会を自分に?しかも生放送で?」今まで体験をしたことのない番組だけに戸惑いを覚えるのは無理からぬことでした。おかげで、説得するのに結構時間はかかったのですが、和田さんの口添えもあって、ようやくオファーを受けてくれることになりました。ところがこれが、そうすんなりとは運ばなかったのです。一応、事前に生放送のシミュレーションをしておこうということもあって、同局の「ニュースステーション」にゲストとして出していただいた時、すっかり久米さんのペースに翻弄されて、自分の色が全く発揮できなかったのです。すっかり自信を無くした紳助さんは「自分には、やっぱり無理」と心が折れてしまったのです。

 当時はもう大阪本社に復帰していた私が週末に東京の自宅に戻ると、マネージャーが待ち受けていて、2人でマンションのドアどころか、心まで閉ざしていた紳助さんに「立派なことを言って仕切ろうなんて思わないで、視聴者の代表として出ればいいんじゃない?」と説得にあたったのを憶えています。こうして、番組は、司会・島田紳助、ホスト・田原総一郎さん、そしてコメンテーターは国際政治学者・高坂正堯さん、普通のおばさんに戻った・都はるみさんという関西色にあふれた布陣でスタートをしたのです。紳助さんは21年間続いたこの番組の司会を14年務め、大人の人たちにも認知される存在になっていきました。

朝日放送の和田省一さん(現・朝日放送 取締役相談役)

 

 

「歌のトップテン」の司会を務めていた頃の紳助さん

 

 

紳助さんが司会を務めたサンデープロジェクト