木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 西川さんの決意を聞いて、帰京した私は中邨常務と共に、状況説明のために、レギュラー番組を持つ局を訪ねました。こうした動きは当然マスコミの知るところとなり、3月15日大阪の報知新聞に「きよし、参院選に出馬」とスクープされ、流れは決まってしまいました。会社も仕方なく記者会見を開くことにし、「お世話になった大阪に恩返しをするため、大阪地方区から無所属で立候補する」と熱く語る西川さんをフォローするかのように、同席した中邨常務も「無所属の出馬であるため、会社も積極的に応援する」とコメントせざるを得なかったのです。

 当然、横山さんは「会社より前に、まず俺と話をすべきやろ!」と反発します。奥さんや、ボート仲間に「あれは絶対落ちよる」と言っていたのは、「当選してほしくない」という気持ちの裏返しの言葉だったのです。西川さんにすれば、仕事上迷惑をかけられないと会社に説明するのを優先するのは当然のことだったのですが、今まで横山さんは、西川さんに散々迷惑をかけてきたことを他所に、それでも自分との漫才を続けてくれると思っていたからなのです。たしかに、甘えと言えばそれまでなのですが、私にはどちらが正しいということではなく、根っからの漫才一途人間の横山さんと、役者を志しながら、横山さんに誘われた漫才で大成功を収めた西川さんという、2人のプロトタイプ(基本形)の違いであったような気がしています。

 ちなみに、横山さんは87年近藤勝重さんの著書の中で、「やっぱりね、俺らは暗黙の内にゴールした、と確認取っているわけやね。それが2、3年前ですわ。後ろ振り向いても、敵も追っかけてきいへんしね。でも何かやりたいというのはあるわけや。」と述べています。40代はいわば「人生の折り返し」ともいわれる時期です。しんどいけれど、一度人生前半の棚卸をして、すべてを見直し、自分を再構築して、ギアチェンジを図らなきいけない。つまり、「自分はこのままでいいのか」という問いかけを、自らに課さなきゃいけない年代なのかもしれません。で、出した答えが西川さんは「参院選」、横山さんが「やはり、漫才」だったというわけです。

 澤田隆治さんから私に電話が入ったのは参院選公示日前日、3月16日のことです。「明日の公示日に横山さんと西川さんを会わせよう」とのことでした。選挙出馬表明以来、横山さんと西川さんの間は疎遠になっていました。「もし、ここで関係を修復しておかなければ、2人の漫才が途切れてしまう」という思いは私も同様でしたから、否はありません。さっそく埼玉にいた横山さんに連絡を取って、宿泊先の赤坂東急ホテルで会うことにしました。場所は3階のコーヒーハウス。ここなら24時間営業ですから時間は気になりません。横山さんが、待ち受ける我々の前に現れたのは、もう日付けも変わろうかという、午後11時を回った頃でしたね。

報知新聞に報じられた3月15日の記事

 

 

当時、参院選公示日 3月17日・18日のスケジュール表

 

 

赤坂東急ホテル

 

 

近藤勝重さんの著書「やすし・きよしの長い夏」(ランダムハウス講談社文庫)