木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 当時の私の発言を振り返ると、「これからの敵はジャニーズです」と「吉本は大きく変わります。笑いだけではなくアイドルの世界を目指します」などと強気なものが目立ちますが、こうした発言はマスコミに向けたものであると同時に、大阪本社に向けたものでもあったのです。「東京事務所は漫才ブームが終われば、駄目になる」と囁かれていたからです。

 一方大阪では、84年に、かって一世を風靡した、演芸の殿堂ともいうべき松竹の角座が閉館していました。吉本でも83年には前年より14億円伸ばして、戦後最高の売り上げを計上したものの、84年には5億円弱の減収となっていました。劇場の収入が落ちたのです。そのためには、なんとしても新しいステップを踏み出さなきゃいけないという思いもあったのだと思います。

 当然、周りからのハレーションもしだいに強くなっていきました。「今までは、演芸というジャンルだから大目に見ていたけれど、我々のテリトリーに入ってくるなら、それなりに対応するよ」ということです。もちろんそれを面と向かって言われたことは、ただの一度もないのですが、なんとなく空気で分かります。現に、あるタレントのCMのギャランティを交渉している際に、あるキャスティング会社の人から「そんな金額を要求したら、業界の序列というものをこわしますよ」とやんわりと自制を促されたこともありました。「業界?秩序?何せ、大阪から来たものでよくわかりませんので・・・」と言葉を返したものの、どこか釈然としない思いだけは残りました。もちろん、要求通りのギャランティを勝ち取りましたがね。どうも、私は、「右向け右!」とか「前へ倣え!」って言葉が嫌いで、「右向け!」って言われると、つい左の方を向いてしまうという天邪鬼な性格なのでしょうね。

 そんな内外との闘いの日々を繰り返していて、心の中もたぶん、ささくれだったものになっていたのでしょう。部下たちにも、つい言葉を荒げるようにもなっていたのだと思います。つい最近知ったのですが、威圧によって部下を従わせる「クラッシャー上司」という言葉があるそうです。当時の私は、まさにこの言葉そのものの上司であったようです。こんなことに今更気付いても遅いのですが、大いなる反省を込めて、「今ならもう少しいい上司になれていたのでは?」という気もしています。とは言え、私が、かの横山やすしさんのように、ヘタを打ったお弟子さんをハンガーで殴って、頭から血を流しているお弟子さんを他所に、壊れてしまったハンガーを見つめながら、「この頃のハンガーって弱いなあ!」と呟いたわけではありませんよ、念のため!

1984年に閉館した角座

 

1000席規模の演芸場でした

 

1羽だけ右を向いている「KIMURAくん」マグカップ

 

右向け左!

 

頭を殴って壊れてしまったハンガー(イメージ)

 

これが本物の、やすしさんが使っていた武器(?)