木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 準備稿は8月半ばなってようやく完成したのですが、改訂の余地を残したまま撮影の日を迎えることになりました。キャストも当初の予定とは異なったものの、大親分に丹波哲郎さん、他に桑名正博さんや伊東四朗さん、杉浦直樹さんなどの出演が決まっていました。横山さんも、気合を入れていたのか、たった一度小豆島のボートレースで歯が欠けて顔を晴らした以外は、酒を飲みすぎることもなく、真剣に取り組んでいたと思います。横山さんの評判は悪くはなかったのですが、興収で8億はいくと思われていた数字には若干及ばず、7億台に留まってしまいました。おかげで、「トラック野郎」の再来を期してシリーズ化したいと、天尾さんが押さえていたスケジュールも無駄になってしまいました。

 そんなある時、内田裕也さんからの呼び出し電話が事務所に入りました。「一面識もないのにいったい何だろう?どこかで気に障ることでも言ったかなあ?」と怪訝に思いつつ電話に出てみると「話たいことがあるので、〇〇ホテルまで来てほしい」とのこと。少し怯む気持ちもあったのですが、意を奮って出かけることにしました。ホテルに着くと、さっそく187cmと大柄な安岡力也さんの出迎えを受けました。グループサウンズシャープ・ホークスの出身で、キックボクサーを経てタレント活動をされ、「ひょうきん族」でホタテマンとして出演もされていましたが、どちらかというと強面な方でした。「これはもう逃げられないな」と覚悟して、導かれるままに後をついていくと、内田裕也さんの姿が。

 お話は、内田さんが主演されるATGの映画「十階のモスキート」に、「横山やすしさんの出演をお願いしたい」とのことでした。渡された台本を拝見すると、監督はこれが初監督となる崔洋一さん、脚本は崔さんと内田さんの共同脚本となっていました。横山さんの役名を見ると「芸能人風のしゃれ男」でワンシーンの出番となっていました。帰り道、ホッとしつつ、こんなことなら「電話で済ませてよ!」とも思ったのですが、これが内田さん流の筋の通し方だったんだろうなと思い直しました。この作品には、ビートたけしさんも「競艇場の予想屋」役で出演をされているのですが、やはり同じようなご依頼を受けられたのでしょうかね。

 その後、内田さんとはお目にかかる機会はなかったのですが、安岡さんとは新幹線で一度お会いしたことがありました。私が新大阪から東京へ帰る際に、名古屋から安岡さんが乗ってこられて、それに気付いた私が「やばい!気付かれないように」と思って新聞で顔を隠していると、席まで来られて「おはようございます」と声をかけられてしまいました。あちらは礼を失わぬように、とのご配慮だったとは思いますが、傍目には私が喝上げされているようにしか見えなかったのではないでしょうかね。

映画「十階のモスキート」のDVDのジャケット

 

本作が初監督となった崔洋一さん

 

ホテルで出迎えていただいた安岡力也さん

 

新聞紙で顔を隠したけれど・・・

 

力也さんに声をかけられてしまって怯える私

 

HISTORY

第話

 この頃の記憶が定かではないため、当時の事情をつぶさに記した小林信彦さんの「天才伝説 横山やすし」を読み返すと、小林さんが笠原和夫さんと交わされた会話の中に興味深い記述がありました。漫才ブームに沸く80年、毎日放送「素晴らしき仲間」の中で、「あと何年くらいコンビとして漫才をやれる?」と尋ねた藤本義一さんに、やすしさんが「あと7年くらいやと思います」と答えたというのです。80年といえば、やすし・きよしが芸術祭優秀賞、花王名人大賞を受賞した年です。その絶頂期に、「ここまで言いきっていいのか」と小林さんは感心されたというのですが、86年に西川きよしさんが参院選に出馬した辺りから酒量が増え、翌年には吐血入院していったことを思えば、結果的には読みが当たっていたといえるのかもしれません。

 この年、やすしさんには啓子夫人との間に、光ちゃんという女の子が生まれました。そんな時にセスナ機を購入したのです。溺愛する光ちゃんの名前を取って月光号と名付けられました。事前に相談はされていたのです。「実は、悩んどるねん。家を買うか飛行機を買うか?」それを聞いて、「そんなもん、家に決まってるでしょう」と答えたものの、私の意見は採用されず、ロケで出かけたアメリカで頭金を入れてしまったというわけです。私も2度ばかり、駐機している八尾空港から乗せてもらったことがあるのですが、「無線免許を持ってないから離着陸だけは単独ではできない」とのことで、正式のパイロットが横について、横山さんはコーパイ(副操縦士)ということだったので安心して乗ることができました。「これで、上から相方(西川さん)の家を見下ろしたるねん!」と得意げに話していましたね。後に「やすし・ハワイの空を飛ぶ」という企画でロケをした制作会社のプロデューサーから、やすしさんが操縦免許を持っていなかったということを聞いて、思わずひっくり返りそうになったのを憶えています。

 いつだったか、吉本興業の林正之助会長が、伝説の破滅型芸人・初代 桂春團治さんと、やすしさんのどちらが無茶だったかと問われて、「そら、やすしや!春團治は空を飛ぶようなことはなかった」と答えられたそうですが、まさに言いえて妙、さすが笑いを商いにする会社のトップだけのことはあるなと感心しました。数多くの芸人さんを見てこられ、皆から「ライオン」と恐れられてきた会長が、やすしさんの才能を評価されていた証拠ですね。

小林信彦さんの著書「天才伝説 横山やすし」

 

第1回 花王名人大賞 受賞時の様子(1980年)

 

伝説の破滅型芸人・口を差し押さえられた春團治さん

 

溺愛する光ちゃんの名前を取った、月光号の前で

 

愛機に搭乗して、ご満悦の横山さん

 

林正之助会長とともに、創業者 吉本せいさん像の前でツーショット

 

やすしさん、ハワイの空を跳ぶ?

 

HISTORY

第話

 そんなカリスマ会長が、たった一度だけ東京事務所を訪ねてこられたことがありました。何せ、18歳で姉の吉本せいさんと夫の吉本泰三さん夫婦を助けるために吉本興行部に入り、19歳で総監督になり今日の吉本を築き上げた伝説の人物です。舞台で不満足な芸をした芸人さんなどは、すぐに呼びつけられて雷を落とされていました。会長を恐れていたのはなにも芸人さんばかりではありません。社員もみな、会長が来られるという知らせが入った途端、雷を落とされるのが怖くて、蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消えてしまいました。

 36話でご紹介した、難波花月の吉本勝彦支配人に、「吉本興業とは何の関係もないのに、まるで自分が使われているみたいだから名前を変えなさい。」と迫ったという逸話や、「昔はよう働いたもんです。今みたいに、日曜日4回も休んで、その上、土曜日まで休むなどという不料簡な人間なんか居りませんでした。」という語録で知られていた人ですから、皆が恐れるのは無理もなかったと思います。もっとも私などのペーペーに攻撃の矢が向いてくることはなく、それをいいことに、この日まではできるだけ会長の視野に入らないように振舞ってはきたのですが、事務所へ来られるとあっては所長である自分が逃げることはできません。腹をくくって、会長のいらっしゃるのをお待ちすることにしました。

 ややあって、現れた会長は、緊張して固くなっている私をよそに、差しさわりのない話をして、20分ほどで去って行かれました。ほっと安堵しながら会長を見送ろうとドアを開けると、随行されていた方から、「これ、会長からです」と白い封筒を渡されました。開けてみると中に3万円、一瞬、「嬉しい」とは思ったのですが、「これって、丁稚どんが旦那様からご祝儀をいただくのと同じじゃん」いう思いが頭をよぎりました。「それなら、もう少し給料を上げてください」と言いたかったのですが、そんな言葉を口にしようものなら、どんな言葉が返ってくるかと思うと恐ろしくてぐっと飲みこみました。「その3万円はって?」多分皆で食事に行ったと思いますよ。もしかしたら、一人占めをしたのかなあ?

 それはともかく、会長が来られたということで、今までどちらかと言えば鬼っ子扱いされてきた東京事務所の存在が、社内的にオーソライズされたということになったのは、3万円をいただいた以上にうれしい出来事でした。たしかに、土曜も日曜もほぼ休まずに働いてはいましたけれどね。

創業者の吉本せいさんと、今日の吉本を築き上げ、伝説の人物と呼ばれた林正之助会長

 

エンタツ・アチャコさん、柳家金語楼さんら吉本のスター達と共に映る林会長(前列右)

 

吉本支配人も、「名前厄」だったのでしょうか?

 

          私                      会長

 

HISTORY

第話

 この頃には仕事も増え、スタッフが5〜6人に増員されていたこともあって、事務所も、私が新居を構えた、檜町小学校(現・赤坂小学校)の隣にある秀和赤坂檜町レジデンスの真向かいの、赤坂ニュープラザビルに移っていました。以前の事務所の時もそうだったのですが、職住近接というのはなるほど便利ではあるものの、気持ちのONとOFFの切り替えには適していないものです。その為、わざわざ回り道をしてお気に入りの喫茶店に寄ってから出勤したり、退勤をしたりしていましたね。やがて子供ができて居を高輪へ移すことになるのですが、いま思えばあんな狭い2DKの空間に、よくぞ15年も住んでいたなという気がします。

 当時からお世話になっている乃木坂歯科へ行った帰り、たまに近辺を散策することがあったのですが、当時あった北島音楽事務所もなくなっているようですし、住んでいらっしゃった都はるみさんも他へ移られたのでしょう。喫茶店へ行く折によくお会いした安藤昇さんも亡くなりましたね。当時はまだなかったのでしょうが、後年、矢沢永吉さんにインタビューする際に訪ねたODEN STUDIOが随分近くにあったことにも驚きました。

 そんな便利な所に住んでいながら、82年2月、33人の死者を出したホテル・ニュージャパンの火災に全く気付かなかったのは、今もって不思議でなりません。9時間も燃え続けたというのに、立ち寄った喫茶店でマスターと客との会話で初めて知ったのです。当時は、朝ゆっくりと新聞に目を通したり、テレビを見る時間もなかったように思います。いつ何時トラブルが起きるか分からず、その都度の処理に追われていて、それどころではなかったように思います。

 早朝に警察から電話が入って「○○さん(横山さんがほとんどなのですが)の件ですぐ来てください!」という呼び出しがあったらすぐに出かけなきゃいけません。警察ばかりではありません。銀座の常宿にしている某ホテルから電話が入ったことがありました。「前夜にフロントマンに暴行を働いたのですぐに来てほしい」とのこと。出かけてみると、殴られたフロントマンの目には歌舞伎役者のように、くっきりと隈が入っていました。横山さん曰く「一切電話は取り次がないように!と言っていたにもかかわらず電話をつないでしまったから」ということでしたが、相手もさるもの「親戚の者だ」と言われたので仕方なく取り次いでしまったということでした。

 たぶん借金の返済を催促されたのだとは思いますが、それにしても暴力をふるったのはいけません。平謝りをして、何とか事を穏便に済ませていただいたのですが、ホテルの上司の方からは一つ条件を出されて、「今後一切、横山やすしさんには宿泊をしないでもらいたい」ということでした。これは飲むしかなかったのですが、さて今度はどこに泊めてもらえるかと頭を悩まさなきゃなりません。結局、赤坂の某ホテルにしたのは良かったのですが、やはり、ここでも・・・・・・。そういえば、羽田空港でもタクシー協会から乗車拒否されたことがありました。本当に、やりがいのあるタレントさんでしたねぇ。

秀和赤坂檜町レジデンス

 

赤坂ニュープラザビル

 

ホテル・ニュージャパンの火災を報道した新聞記事

 

常宿にしていた銀座の某ホテル

 

「これでもくらえ!」

 

「ムギュッ」

 

「レッドラインを超えました。」

 

HISTORY

第話

 東京事務所時代に何人かの社員を見てきましたが、一番印象に残っているのは玉利寛君ですね。仕事っぷりではなく、数多くのエピソードを残したからです。鹿児島県出水市の生まれで、私と同じ同志社大学の出身。最初のエピソードは、たしか明石家さんまさんと姫路へ行ったとき、新幹線が来るまでに時間があったので、下の喫茶店で一緒にお茶を飲んで時間を潰して、いざ入線した列車に乗り込む段になって、「さんまさん、どうぞ先に帰ってください」というので、さんまさんが「そんなこと言わずに一緒に帰ろう」と促すと、「切符が下に」と、どうしても一緒に乗ろうとしないので、「それなら、早く下の喫茶店行って切符を取ってくれば!」というと、なんと切符は、下は下でも、階下の喫茶店ではなく、新幹線の車両の下に落ちてしまっていたということだったのです。これが、世にいう(誰も言ってないか)「切符が下に事件」で、一気に彼の名を広めるきっかけになりました。

 当初は、タレントさん特有の脚色話だと思っていたのですが、本人に接するうち満更脚色でもないなと思い直すようになりました。タレントさんをフォローして放送局へ行っていた彼から「今からニッポン放送を出ます」との電話が入ったのですが、たまたま窓際から外を眺めながら電話を受けていた私の目に、向かいのホテル陽光入口にある公衆電話から電話をかけている彼の姿が見てとれたのです。しばらくして現れた玉利君に、「ニッポン放送って赤坂にあったっけ!」と突っ込んだのは言うまでもありません。

 他にも、電話をかけてきた彼に、私が「はい、東京事務所です」と電話に出ると、「今、玉利です」と言って、「お前、さっきは何やったんや!」と問い詰めたこともありましたね。いくよ・くるよさんと仕事に行き、タクシーで帰る際「お疲れさまでした」と言って、パワーウインドウを下げる操作を誤り、首が絞まって真っ赤になっていたとか数々のエピソードもありました。

 大阪本社へ帰ってからも、劇場の合間に仕事に行っている芸人さんが戻る時間を気にしている支配人が、「今日の仕事は誰がついて行ってる?」と聞いて、玉利君だと聞いた途端、「絶対間に合わない」と出番を入れ替えたほどでした。たしか、のりお・よしおコンビのマネージャーをやっていた時です。先輩たちが彼の思惑など無視するかのように、勝手に仕事を入れるのに業を煮やした彼が、悔しいからと別のスケジュール表を作ったために、ダブルブッキングの連発になったことがありました。おまけに、そのスケジュール表を会社近くの戎橋に落としていて、多くの足型の付いているのを他の社員が発見したというおまけまで付いていたのです。

 そんな彼が、社内結婚をするということで、私も出席をさせていただいたのですが、当然のように、さんまさんはじめ吉本側のゲストは誰一人、彼のことを褒めなかったのです。これはシャレというもので、愛情の表現でもあるのですが、当然、素人さんばかりの親戚の人たちには通じません。だんだん彼のお父さんの表情が曇っていくのが見て取れました。そして、とどめを刺したのが酔いのまわった横山さんだったのです。招待もされていない彼がどうして現れたかというと、当日、同じホテルで、ある放送作家と打ち合わせをしていたのですが、その人が離席する際にうっかり「玉利君の結婚式に参列する」と言ってしまったらしいのです。「なら、俺も出る」ということになって、現れたということがわかりました。「招かれざる客」とはこのことです。その後のことは、書かないでもわかりますよね。あれから幾星霜・・・、玉利君、あの時の奥さんとは、まだ一緒なのでしょうか?

 事務所には他にも、酒を飲むと目がサメのように変わる「シャーク・アイ野山」君とか、横山さんと車に乗って前の席に座り、スタジオからホテルに着くまで後部座席の横山さんから小突かれ続け、「俺は木魚か!」と嘆いていた泉君など、タレントさんに負けない個性豊かな面々がいましたが、キャラの立ち方という点では、玉利君が群を抜いていたように思います。

前列中央に写っているのが玉利寛君です。

 

世にいう(誰も言ってないか)「切符が下に事件」

 

どちらも玉利君ではありません。

 

シャーク・アイ野山君

 

「俺は木魚か!」と嘆いていた泉君

 

HISTORY

第話

 やすし・きよしさんは83年4月からテレビ朝日で「やすきよ笑って日曜日」という45分間のレギュラー番組を持っていました。かって「大正テレビ寄席」をやっていたのと同じ枠です。大阪の朝日放送は以前と同様に「やっさんのはちゃめちゃ捕物帖」という別番組やっており、横山さんは東京と大阪で、同じ時間に別のレギュラー番組つという何とも不思議な体験をしていたわけです。

 番組は2つに分かれ、前半はサラリーマンの常連客に扮したやす・きよさんが、池波志乃さんがおかみの居酒屋を訪れて交わす爆笑トーク、後半はそれぞれの家庭で繰り広げられるコント仕立ての風景となっていました。横山家の奥さんには吉本新喜劇の山田スミ子さん、子供役には小川範子さんと、まだ14歳の実子・木村一八君、西川家の奥さんは鮎川いずみさん、子供役にはこれも実子の忠志君と弘志君が出ていました。コメディ部門の脚本を元木すみおさん、清水東さん、三谷幸喜さんの3人が回り持ちで担当をしていました。

 3年間続いた番組は、西川さんが7月の参議院選挙に出馬することになったため、86年4月に終わって、横山さんと伊東四朗さんの「みんな気まぐれ日曜日」に引き継がれますが、一八君にとっては、この番組がタレントとしての人生を始める大きなきっかけとなりました。

 翌84年には小林俊一さんから、フジテレビで10月10日19時30分から放送する、「走れ15才!はじめての旅立ち」というスペシャルドラマの主演依頼が入ったのです。小林俊一さんと言えば、68年に渥美清さんとコメディドラマ「男はつらいよ」、78年には「白い巨塔」など数多くのヒット作を作られた名プロデューサーとして知られた方です。当時はフジテレビをやめて、自ら「彩の会」というプロダクションを主宰されていました。ご依頼のあった作品の内容は、460㎞の自転車旅行に挑んだ15才の少年の精神的成長過程を描くというもので、お母さん役に泉ピン子さん、お父さん役に愛川欽也さんというキャスティングでした。

 一八くんは、それまでテレビに出ることはあっても、お父さんとの共演ばかりだったので、彼が自立する為には格好の機会だと思い、お受けすることにしました。とはいえ、一八君にとっては初めての体験、大いなる不安もあったのですが、幸いなことに、お母さん役の泉ピン子さんが、やす・きよさんと関西テレビの「相性診断!あなたと私はピッタンコ」を5年間一緒にされていたこともあり、演技指導を含めて、何かと気を使っていただき、おかげで無事に乗り切ることができました。ピン子さんが、伝説のドラマ「おしん」などに出演をされて、本格的に今日のような大女優への道を歩み始められた初期の頃のことです。仕事終わりに、宿泊先の銀座日航ホテルで、「どう?大丈夫」と聞いたとき、小さな声で「はい」と消え入りそうな声で答えた時は、まだ気の弱そうな少年でしたね。

  

 

横山やすしさん、木村一八君の親子共演レコード「人生はタタカイやで」(1983年発売・クラウン)

 

晩年の小林俊一さん

 

テレビ版「男はつらいよ」

 

「男はつらいよ」で渥美清さんと(左が小林さん)

 

「白い巨塔」で主演の田宮二郎さんと

 

これは一八君ではありません

 

HISTORY

第話

 一八君はその後、東京近郊のニュータウンを舞台に、思春期の中高生が繰り広げるちょっとHな騒動に、頭を抱える大人たちの姿をコミカルに描いたドラマ、「毎度おさわがせします」(TBS・木下プロ)に出演します。一八君のお父さんが小野寺昭さん、お母さんは篠ひろ子さんで、ガールフレンド役の中山美穂さんのお父さんが板東英二さん、お母さんは夏木マリ(第2シリーズは新藤恵美)さん。火曜日21時からの放送で、第1シリーズ12回で平均19.5%、第2シリーズ16回では21%の視聴率を稼ぐ人気ドラマとなりました。

 一躍アイドルとして人気者になった一八君は、フジテレビ・月曜ドラマランドで、私が子供のころ愛読していたこともあって提案した「おさわがせ剣士 赤胴鈴之助」や、「包丁人味平」といった軽いタッチの作品から、「太陽にほえろ700話」、岩下志麻さんの「青き犠牲」(フジテレビ)や大原麗子さんの「姐さんたちのララバイ」、富田靖子さんの「なんて素敵にジャパネスク」(NTV)や「月夜のうさぎ」(NHK)などにも主要キャストとして出演をするようになっていました。

 子供っぽかった風貌も、すっかり若者らしく変貌して、映画では、「THE MODS 夜のハイウェイ」「シャコタン ブギ」「さらば愛しき人よ」「ウェルター」などで主演。レコードもフォーライフから「オレたちだけの約束」がオリコン週間8位、TBS「ザ・ベストテン」で今週のスポット・ライトに扱われるなど、まさに順風満帆のスタートを切っていたのです。このまま順調にいけば、今まで吉本には居なかったタイプのスターが生まれるかもしれないと思われていた矢先、事件は起こりました。

 88年11月25日、深夜の六本木、ロアビルの辺りで、乗車拒否に激高した一八君が運転手さんに暴行を働き、被害者の運転手さんが意識不明の重体に陥っているとの知らせが、早朝に麻布署からもたらされました。当時私は大阪本社勤務になっていて、父の13回忌を済ませた後、所要で帰京をしていたのです。さっそく、謹慎を命じられて帰阪したばかりの横山さんに連絡を取り、奥さん共々、再度上京していただくことにしたのはいいのですが、宿泊先の赤坂東急ホテルから現れた横山さんからは酒の匂いが・・・心理的動揺を抑えるために呷ったのかもしれません。まずは、被害者の入院先の旗の台にある昭和大学病院へ行ってお詫びをすべく、車を走らせることになりました。被害者との面会は叶わず、主治医に様子を聞き、一八君が留置されている麻布署で面会をした後、事務所内で記者会見をして謹慎することを表明したのです。

 間の悪いことに、ちょうどこの頃大阪では、スタッフ・アズバーズとの共同制作で、12月27日にABCで放送する桂三枝さん原作の、火曜スーパードラマ「吉本興業殺人事件」の制作に取り掛かっていたのです。

TBS「毎度おさわがせします」のワンシーン

 

中山美穂さんと

 

フジテレビ・月曜ドラマランドで一八君が演じた赤胴鈴之助

 

麻布警察署

 

恐怖の電話が

 

事件の現場となった深夜の六本木・ロアビル付近

 

当時の事件を報道した報知新聞の記事

 

被害者の方が入院された、旗の台にある昭和大学病院

 

HISTORY

第話

 ドラマは、吉本興業の社内で西川のりおさんの女性マネージャーが殺され、三枝さん扮する会長が犯人捜しをする中、のりおさんまでもが殺されて、芸能界が大騒ぎになるというものでした。出演者は桂三枝さんの他、斉藤慶子さんや、やすし・きよしさん、巨人・阪神さん、桂文珍さん、西川のりおさん、間寛平さん、たしかダウンタウンの2人も出ていましたね。

 26日にロケを開始したものの、27日の撮影は一旦ストップをして、対策を話し合うことになりました。私は横山さんと再度病院を訪ねた後、横山さんと共に記者会見に臨んで、27日大阪本社へ帰り、上司と打ち合わせた上、夜にプラザホテルで原作者でもある桂三枝さんと会って、シナリオの書き換えを含めて協議を重ねました。

 翌28日午前、病院の医師に電話を入れ、被害者の様子を問い合わせたところ、人工呼吸器は使用しているものの、生命の危機はとりあえず脱したようだとの答えを聞き、その後臨んだABCとの話し合いで「放送は予定通り」、ただし「あまりにも刺激的なタイトルは変更、やすしさんの役はぼんち・おさむさんに変える」ことなどが決まり、29日から撮影を再開することになりました。

 一八君が出演中のTBS・大映テレビ制作ドラマ「疑惑の家族」も12話中の9話で打ち切りとなり、本人も少年院送致に。吉本との契約も解除されました。ところが4カ月後、今度はやすしさんの方が、示談が成立後に会社からの謹慎が解けたこともあって、久しぶりに出たOBCのラジオ番組の後に、淀川区内の交差点でバイクとの接触事故を起こしてしまったのです。体内からアルコールが検出されたこともあって、「息子の件がまだ完全に解決もしていないのに、自ら事故を起こすというのは不謹慎の極みである」として専属契約を解除される羽目に陥ることになってしまったのです。

 事故の報を耳にした時に、さすがの林会長も「もうええ、もうよろし!」と断を下されたとあって、中邨副社長と林専務から呼び出された私にも、やすしさんの契約解除の方針が申し渡されました。「わかりました、ところで、一体誰が本人に通告をするんですか?」と尋ねると、林専務が「そら、お前やろ!」とのこと。「これって、東京事務所開設の時と同じじゃん」と思ったものの、いきさつ上ここは納得する他ありません。

 9日後の4月26日、事前に電話していた通り、奥さんを伴って本社に現れた横山さんを前に、あらかじめ用意された、契約解除通告書を読み上げサインを求めたところ、文字が千々に乱れていたのを憶えています。悄然と去って行かれる夫妻を見送った後、副社長と専務に報告して、記者会見。疲れました。西川さんともお話した後、プレミアム・フライデーでもないのに午後4時ころには会社を出ました。もし、酒が飲めていたら、しこたま飲んでいたと思います。何とも、やるせない一日でしたね。そういえば会長はこの日、滅多にないことに会社をお休みになっていました。可愛がっておられた横山さんが解雇される姿を見たくなかったのでしょうか。

原作となった「吉本興業殺人事件」(著・桂三枝さん)

 

「吉本興業殺人事件」の台本

 

「木村政雄」役を演じられたのは秋野太作さんでした

 

ABCと話し合いしたのちに報道された新聞記事

 

酔ったままの状態で、警察官との現場検証に立ち会うやすしさん

 

ファンに対して、リポーターからコメントを求められるやすしさん

 

契約解除通告書を読み上げました

 

HISTORY

第話

 事務所には、一八君と同い年の西川弘志君もいました。ご存知、西川きよしさんの次男坊です。2人とも私が吉本に入社した年に生まれ、お父さんたちに続いて子供さんたちとも付き合うのかと思うと感慨深いものがありました。弘志君も一八君と同様にお父さんたちとの番組に出ていたのですが、タレントを目指すということになり、お世話をすることになりました。共に同年代とあって、じゃれあっているかと思えば、喧嘩をしたり。性格もお父さんたちと同様に対照的な2人でした。

 弘志君は、一八君より少し遅れて、85年5月から13回放送されたTBSのドラマ「サーティン・ボーイ」で主役・男闘呼組の岡本健一さんの兄役でドラマデビューをしました。その後、同じTBSでビートたけしさん主演の「イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち」に出た後、一八君の出ている「毎度おさわがせします」第2シリーズに中山美穂さんの兄役で出演しました。86年はNTVの「なんて素敵にジャパネスク」や「白虎隊」、87年には花王名人劇場・「西川ヘレン物語」でお父さんの役をやったり、テレビ朝日の「松本清張の絢爛たる流離」の第4話で主要な役を演じ、88年~89年にかけて全作平均視聴率38.6%を記録したNHKの連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」で、主人公・山口智子さんの弟役を務めました。

 映画では、85年に「THE MODS夜のハイウエイ」(EPIC・SONY)、88年に「山田村ワルツ」(松竹)、に出た後、第12回日本アカデミー賞に輝いた、中島丈博監督の「郷愁」(ATG)に主演して第13回報知映画賞新人賞に輝きました。レコードも3枚のシングル(エデンの夏、明日への叫び~サイバー・ハート~、灼熱のヴィーナス)がともにオリコン37~48位にランクインされました。弘志君はこのあと2005年まで活動を続け、芸能界を離れた今は博多で和食店をされているそうですが、もしも、一八君が事件を起こさず、いいライバルであり続けていればと思うと残念でなりません。2人ともにそれだけの資質はあったのですから。

 そうそう、86年には、名古屋テレビのオーディション番組、「出たがりサンデー45」に出演したのがきっかけで、金子恵美・芳賀絵己子という2人の女の子をマネジメントすることになりました。まだ中学生だったんじゃないですかね?アイドルということで、「吉本」ではなく、SSM(スーパー・スター・ミュージック)所属にして、担当は横山さんに小突かれ続けた木魚・泉君にしました。結果、CBS SONYさんと話がまとまり、4月21日メジャーデビューを果たすことになりました。担当ディレクターは、あの松田聖子さんを発掘した若松宗雄さんで、作詞が中森明菜さんの「少女A」の売野雅勇さん、作曲がシャネルズの「ランナウエイ」の井上大輔さん。ヒット間違いなしという強力な布陣です。曲名は「妖精ポピンズ」、デュオ名もポピンズということにしました。テレビ東京の、メトロポリタン音楽祭で新人賞をいただいたのですが、結局シングルを4枚、アルバムを1枚出しただけで終わってしまいました。可愛かったのですが、当時はおニャン子の全盛期、時代が悪かったということなのかもしれませんね。

木村一八君(左)と西川弘志君(右)

 

中島丈博監督の「郷愁」(ATG)

 

88年に発売したレコード「明日への叫び 〜サイバー・ハート〜」

 

横山さんに小突かれ続けた木魚・泉君

 

松田聖子さんを発掘した若松宗雄さん

 

86年にCBS SONYよりデビューした「妖精ポピンズ」

 

HISTORY

第話

 当時の私の発言を振り返ると、「これからの敵はジャニーズです」と「吉本は大きく変わります。笑いだけではなくアイドルの世界を目指します」などと強気なものが目立ちますが、こうした発言はマスコミに向けたものであると同時に、大阪本社に向けたものでもあったのです。「東京事務所は漫才ブームが終われば、駄目になる」と囁かれていたからです。

 一方大阪では、84年に、かって一世を風靡した、演芸の殿堂ともいうべき松竹の角座が閉館していました。吉本でも83年には前年より14億円伸ばして、戦後最高の売り上げを計上したものの、84年には5億円弱の減収となっていました。劇場の収入が落ちたのです。そのためには、なんとしても新しいステップを踏み出さなきゃいけないという思いもあったのだと思います。

 当然、周りからのハレーションもしだいに強くなっていきました。「今までは、演芸というジャンルだから大目に見ていたけれど、我々のテリトリーに入ってくるなら、それなりに対応するよ」ということです。もちろんそれを面と向かって言われたことは、ただの一度もないのですが、なんとなく空気で分かります。現に、あるタレントのCMのギャランティを交渉している際に、あるキャスティング会社の人から「そんな金額を要求したら、業界の序列というものをこわしますよ」とやんわりと自制を促されたこともありました。「業界?秩序?何せ、大阪から来たものでよくわかりませんので・・・」と言葉を返したものの、どこか釈然としない思いだけは残りました。もちろん、要求通りのギャランティを勝ち取りましたがね。どうも、私は、「右向け右!」とか「前へ倣え!」って言葉が嫌いで、「右向け!」って言われると、つい左の方を向いてしまうという天邪鬼な性格なのでしょうね。

 そんな内外との闘いの日々を繰り返していて、心の中もたぶん、ささくれだったものになっていたのでしょう。部下たちにも、つい言葉を荒げるようにもなっていたのだと思います。つい最近知ったのですが、威圧によって部下を従わせる「クラッシャー上司」という言葉があるそうです。当時の私は、まさにこの言葉そのものの上司であったようです。こんなことに今更気付いても遅いのですが、大いなる反省を込めて、「今ならもう少しいい上司になれていたのでは?」という気もしています。とは言え、私が、かの横山やすしさんのように、ヘタを打ったお弟子さんをハンガーで殴って、頭から血を流しているお弟子さんを他所に、壊れてしまったハンガーを見つめながら、「この頃のハンガーって弱いなあ!」と呟いたわけではありませんよ、念のため!

1984年に閉館した角座

 

1000席規模の演芸場でした

 

1羽だけ右を向いている「KIMURAくん」マグカップ

 

右向け左!

 

頭を殴って壊れてしまったハンガー(イメージ)

 

これが本物の、やすしさんが使っていた武器(?)