木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 「ひょうきん族」が、計算された予定調和的な笑いの「全員集合」に打ち克つためにとった作戦は、佐藤義和さんによれば「スピーディーでアバンギャルドな笑いを追い求め、アドリブ・NG・楽屋オチ・スタッフ笑いなど、新しい笑いの切り口や、今までにない実験的な要素を取り入れることによって、お笑いバラエティ番組の進化形を世に問う」ことでした。作戦は見事に当たり、レギュラー化から4年後に「全員集合」を打ち切りに追い込むことになるのですが、振り返ってみればこのスタッフが「THE MANZAI」を始めた時と同じ精神が貫かれていることが分かります。前に、もし「Wヤングさんが健在だったら?」という話をしたことがありましたが、「たとえ健在であったとしても、練り上げられたWヤングさんの芸が、この流れに乗れていたとは思えませんね。

 「漫才の枠をシャッフルすることで笑いの化学反応を作ろう」として始められた「ひょうきん族」ですから、出演者には漫才以外の人たちも加わることになりました。片岡鶴太郎さんや山田邦子さんもそうですが、中でも明石家さんまさんの加入は大きかったように思います。既に大阪では、79年からMBSラジオの「ヤングタウン」やニッポン放送の「オールナイトニッポン」といった人気深夜番組のパーソナリティとして、さらに80年からは三枝さんの後を継いで「ヤングおー!おー!」の司会を務めてアイドル的な人気を博し、東京でも堺正章さん主演のTBS連続ドラマ「天皇の料理番」や、大原麗子さん主演のYTV木曜ゴールデンドラマ「五瓣の椿」に出演、81年にはフジテレビで「スター千一夜」の前に放送されていた15分の帯番組「漫才グランプリ」や、テレビ東京で24時台でありながら13%と同局で最高視聴率を上げた「サタデーナイトショー」の司会を務めていました。

 そんな彼が「ひょうきん族」に加わって、タケちゃんマンのライバル、ブラックデビルを演じるようになって、次第に番組の人気も、彼自身の人気も高まっていったのです。スタート時は高田純次さんが演じていたのですが、おたふく風邪で出演できなくなり、代わって出演した、さんまさんとたけしさんの掛け合いが、抜群に面白かったのが起用の要因だったといいます。

 「ひょうきんベストテン」の司会には、さんまさんに代わって紳助さんが入り、のちにパロディではなく本家の日本テレビ「紅白歌のベストテン」の司会をするようになります。たけしさん、さんまさん、紳助さんと次代を担っていく顔ぶれの輪郭が見え始めてきました。そうそう、82年には、ベストテン「ひょうきんベストテン」から、忌野清志郎さんと坂本龍一さんの「い・け・な・い ルージュマジック」のパロディで、さんまさん・紳助さんによる「い・け・な・い・お化粧マジック」がポニー・キャニオンからリリースされました。2人の心情はともかく、結構おしゃれな曲でしたよ。

お世話になった佐藤義和さん

 

原作となった「天皇の料理番(著・杉森久英)」と「五瓣の椿(著・山本周五郎)」の本

 

「い・け・な・い ルージュマジック」と

「い・け・な・い・お化粧マジック」のジャケット写真

 

HISTORY

第話

 漫才ブームの坩堝に巻き込まれ、悪戦苦闘を重ねているうちに2年が経っていました。その間に結婚もして、住居も勝手に会社が用意してくれた所を出て、赤坂檜町のマンションに移りました。結婚式は誰にも言わず、京都の平安神宮で挙げたのですが、前夜に移動して当日の夕方には、もう東京に戻って仕事をしていたと思います。たしか、石川さゆりさんも同じ日に、同じ場所で挙式されました。東京への帰り便の中で、名古屋から乗ってきた知人に会い、「今日は何?」と聞かれ、「いや、ちょっと・・・」と口ごもったのを憶えています。日々の戦いを重ねているうちに、随分まわりの恨みをかっていたと思います。他に当たることができなくて、唯一の部下である大崎君にも、辛く当たったことが多々あったかもしれません。で、ふと思ったのです、「自分の手足となって現場を仕切ってくれているのはいいのだけど、このまま彼を便利使いしていてもいいのだろうか?」と。

 本人はどう思ったか分かりませんが、そろそろ手元から離して、本社へ帰してあげたほうがいいのではないかと思ったのです。必ずしも本社仕様ではない、周りが敵だらけの木村仕様のままでは、彼自身の将来にとってもプラスにならないのではないかと思ったからです。大阪へ復帰した大崎君はやがて東京での体験を生かして、富井部長の元、心斎橋2丁目劇場を立ち上げ、ダウンタウンや今田耕司、東野幸治など今活躍中の多くのタレントを生み出すことになりました。

 「ひょうきん族」が創った異種格闘技の流れは、「笑っていいとも」でさらに加速化されていきます。漫才の人たちが誰もキャスティングされていないのです。相変わらず健在のやすし・きよしさんや、さんまさん、紳助さんがメジャー化していくことによって、売り上げそのものは増えていたものの、「笑ってる場合ですよ」で多くの漫才の人たちが露出していた頃に比べると、幾分の寂しさは禁じえませんでした。「何とかこの流れに沿ったタレントを育てなきゃ!」そう思っていたところに現れたのが、82年に「笑ってる場合ですよ」の「お笑い君こそスターだ!」でグランプリを獲得した斎藤ゆう子というタレントです。153センチと小柄で、だて眼鏡をかけた風貌が、当時ヒットしていたアラレちゃんに似ていたこともあり、セブンイレブンのCM「今日は飛びませんね」というフレーズと共に、あっという間に売れっ子になりました。おかげで、「笑っていいとも」月曜日の「タモリの世界の料理」のアシスタントに起用していただくことができました。面白かったのが、当時はセブンイレブンが関西地方にはまだなくて、関西の人たちは誰もこのCMを知らなかったことです。そのため、彼女が東京で主演ドラマを撮っている、まさに同じ時期に大阪ではまだ通行人をやっていたという逆転現象も起きていましたね。ギャラも2月に8万円、3月に10万円というところから、4月にいきなり400万円という風に上がったのですから、驚きましたね。

京都の平安神宮にて

 

結婚式の時の様子

 

「大きくなって帰ってこいよ。」そんな気持ちで大阪へ送り出しました。

 

セブンイレブンのCM「今日は飛びませんね」のフレーズで有名になった斉藤ゆう子さん

 

HISTORY

第話

 斎藤ゆう子さんは、その後、「象印ヒントでピント」(ANB)や「連想クイズ」(NHK)の回答者や、「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」(KTV)のパネラー、「プロポーズ大作戦」(ABC)4代目愛のキューピットを務めたり、「マルチスコープ」(NHK)「天才クイズ」(CBC)の司会者として活躍し、多くのCMにも起用されましたが、86年放送作家と結婚したのを機に、芸能界から一旦、身を引くことになりました。大阪での結婚式には私も参加したのですが、あまりに花嫁がお色直しと称して席を離れるのに辟易した記憶があります。

 そのあとを埋めるかのように現れたのが、野沢直子さんだったというわけです。たしか83年でした。知人から、野沢那智さんに「一度会ってくれ」と頼まれたのです。野沢那智さんと言えば、白石冬美さんと共にパーソナリティを務める伝説の深夜ラジオ番組「パックインミュージック」(TBS)や、アラン・ドロン、アル・パチーノの吹き替え役としても著名な方です。「そんな人が、どうして一面識もない自分に?」という思いはあったのですが、幾分の好奇心もあって約束したホテルへ出向くことにしました。そこで野沢さんから出たのは、「私の姪が、吉本新喜劇に入りたいと言っているので」という言葉。聞けば、高校在学時にテレビ東京の素人参加番組「ドバドバ大爆弾」に出て、スカウトされて芸能界デビューしたもののうまくいかず、その後に所属した劇団テアトルエコーとも方針が合わずに退団をしたとのこと。彼女が芸能界を目指した責任の一端は自分にもあると思い、何とか「吉本さんに入れてもらえたら・・」ということでした。

 打ち明けられた私としては、「なんで東京育ちの子が大阪の、それも新喜劇に?」という意外な思いと、自らも劇団を主宰されている野沢さんにとっては、言わずもがなのことではあるのですが、劇団という組織の持つ、特有のヒエラルキーに耐えるよりも、「もっとのびのびした環境のほうが彼女にとってはいいんじゃないですかね」と返事をし、日を改めて本人と会うことにしました。

 現れた本人は、ひょうきんな女の子で、お父さんが会社を経営されているとかで、ギャラを払わなくても良さそうなので、「まあ、その辺に転がってれば?」くらいの軽い気持ちで、所属タレントということにしてしまいました。事務所に屯していた「ぼんち・ファンクラブ」の女の子たちとも、年齢が近かったこともあって、仲良くワイワイ騒いでいましたね。そんなある日、事務所の皆で白樺湖へ遊びに行った帰り、「そうだ!ここに別荘があるのを忘れてた」と言って,驚いたのを憶えています。聞くと、お父さんが結構浮き沈みの激しい人生を歩まれた人で、成功された今になっても、自分の家がまだ「貧乏なまま」だと思い込んでいたそうです。「お金持ちにまだ慣れていなくって!とポリポリ頭を掻いていたのが可愛かったですね。

事務所の皆と白樺湖へ 一緒に旅行をした野沢直子さん。

 

ぼんち・ファンクラブの女の子たち

 

野沢さんは人気ラジオ番組のパーソナリティを務めていらっしゃいました。

 

HISTORY

第話

 そんな直子さんも、一年ほどは大した仕事もなく、プラプラしていたのですが84年末になって、ABCが12年間続いた「プロポーズ大作戦」を翌年3月に終了するという話が聞こえてきました。一時は高視聴率を稼いだ番組も、82年から始まったMBSの裏番組「鶴瓶の突然ガバチョ!」に押され、リニューアルを決断せざるを得なくなったというのです。たしか当時は大阪ローカルの番組で、東京で見ることはなかったのですが、それでも「テレビにらめっこ」や「つるべタクシー」というコーナー企画が面白いという評判は聞いていました。「これは大変!」やす・きよさんの番組がなくなるという以上に、吉本が松竹に負けるようなことがあってはなりません。「何とかできないものか?」と考えているときに、大阪のABCから岡村道範さんと吉村誠さんのお二人が訪ねてこられました。共に私より2・3歳下、「突ガバ」の演出をされているMBS田中文雄さんとほぼ同年代の人達です。

 「若者を奪われたのだから、同じ路線で勝負しないで、ここは大人の視聴者を取り込むために、東京で制作をして、キャスティングもメジャーにしなきゃいけないんじゃないですか?」、この辺り余り明確な記憶はないのですが、概ねそのようなことを言ったように思います。そのせいか、あるいは何らかの配慮があったのかわかりませんが、ともかく次の番組はABCと吉本の共同制作となり、お二人とともに、東京で新番組を立ち上げることになりました。そうして生まれたのが「パーティ野郎ぜ!」です。司会は桂文珍さん、田代まさしさんと、まだ15歳でデビューしたばかりの中山美穂さん(≠吉本の中山美保さん)。そして試しに、お茶運びとして野沢直子さんを使ってみることにしたのです。

 1回目のゲストが郷ひろみさん、以降も小泉今日子さんなど、ビッグネームにご出演いただいたのですが、困ったのは文珍さんの両脇を固めるお二人です。ラッツ&スターから離れて初めの単独出演となる田代さんは、まだバラエティ番組に慣れていないということもあって、膝がガクガク震えている始末。中山美穂さんに至っては、この年の1~3月放送されたTBSの「毎度お騒がせします」で主演したものの、何せまだ15歳。フリートークをさせるのは酷というものです。次第に2人とも話せるようにはなったのですが、一人で切り盛りするのを余儀なくされていた、文珍さんにかかる負担は大きかったと思います。そしてその間を、持ち前の明るさで埋めてくれたのが野沢直子さんだったというわけです。

 「パーティ野郎ぜ!」は「突然ガバチョ!」に拮抗する視聴率を上げたのですが、10月から同系列のテレビ朝日で「ニュース・ステーション」が始まったために、枠そのものがなくなり、「突然ガバチョ!」と共に姿を消すことになりました。あと少し続けていれば、と思うと残念ではありましたが、おかげで野沢直子さんという新しいキャラクターを生んでくれたことを思えば、それはそれで意味があったのかなという気もしています。

 

 

ゲストのラウドネスの皆さんと、司会の桂文珍さん

 

朝日放送プロデューサーの吉村誠さん       ディレクターの小松原登さん

 

ゲストの加藤茶さん、小泉今日子さんにお茶を出す15歳の中山美穂さん こちらは?歳の中山美保さん

 

単独出演が初めてで、震えていた田代まさしさん

 

「つるべタクシー」の一コマ

 

HISTORY

第話

 野沢直子さんはこの後、「お昼だドン」(テレビ東京)、「ひょうきん予備校」・「笑っていいとも」(フジテレビ)、「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」(日本テレビ)などにレギュラー出演して、ダウンタウンやウッチャンナンチャン、清水ミチコさん達とともに「夢で逢えたら」(フジテレビ)にも出演するようになるのですが、横澤さんに初めて彼女を紹介したときに、「お猿さんみたいだね」と言われていたのを憶えています。そういえば、2年半、解答者としてお世話になった人気番組「SHOW by ショーバイ」で、彼女の素っ頓狂な言動と、破天荒な解答が、周りを笑いの渦に引き込むので、フリーになったばかりの逸見正孝さんが、どう対処していいか分からずオロオロされていたといいます。

 その様子を、同じ解答者として目撃されていた山城新伍さんが後に、真面目一本だった逸見政孝をあそこまで面白いキャラクターに育てたのは、野沢直子の功績が大きい」と評価さていたそうです。名古屋でも、若者向けの人気番組「5時SATマガジン」(中京テレビ)の司会を4年間も務めていました。 CDも「鼻血」(「おーわだばく」「マイケル富岡の夜は更けて」など)や「深爪」をリリースし、映画「マネーざんすっ」で監督、「林家パー子の野望」では監督・脚本まで熟しました。

 そんな彼女でしたが、91年3月、すべてのレギュラー番組を投げうって、アメリカへ旅立ちました。かの地でバンド仲間と結ばれ、今は年に1度帰国して番組に出演しているといいます。私が、彼女からその決断を聞いたのは、すでに戻っていた大阪本社でのことだったと思いますが、「それも、いいんじゃないか!」と言葉を返しつつ、「ちょっと、もったいないな」という思いが拭えなかったのを憶えています。それほど、彼女は大きな貢献をしてくれたということです。

 とはいえ皆が、斎藤ゆう子さんや、野沢直子さんのように成功したわけではありません。三枝さんの弟子で、スクールメイツ出身のクルミ・ミルクという女性漫才コンビがいました。一応歌手を目指していただけあって、それなりに可愛いかったのですが、いかんせん笑いのセンスはゼロ、仕方なく、初代B&Bで、お笑い作家をしていた萩原芳樹君に預けたものの、上達はおぼつかず。仕方なく、当時東京ではまだ全く知られていなかった、若井こずえ・みどりさんのネタを完全コピーしたところ、けっこう形になり、何本か演芸番組に出たあと、初期の「ひょうきん族」にも出してはいただいたものの、いつしか姿を消していきました。クルミが漫才の中で飛びながら相棒のミルクにツッコミを入れる「ジャンピング・ツッコミ」をあのビートたけしさんが真似たこともあったんですがねえ。今どうしているんでしょう?

ダウンタウンやウッチャンナンチャン、清水ミチコさん達とともに出演した「夢で逢えたら」

 

惜しくも48歳の若さでご逝去された逸見政孝さん

 

CD「はなぢ」と「ふかづめ」をリリース

 

「トン吉 チン平 カン太」

 

悩殺ポーズをとるスクールメイツ出身のクルミ・ミルクさんとお二人が出演するポケットミュージカルのチラシ

 

HISTORY

第話

 この頃の思い出深い番組に、81年4月から始まったテレビ朝日の「ザ・テレビ演芸」があります。横山やすしさんが司会でアシスタントに女性がつくというもので、都合8人が務めたのですが、横山さんは6代目の堀江しのぶさんがお気に入りでした。日曜日の午後3時からの1時間番組で、関西では系列のABCが「吉本コメディ」を放送していたために、近畿放送(現KBS京都)とサンでテレビで時差放送していました。プロデューサーは「大正テレビ寄席の」中江尭故さん、ディレクターが二宮久友さん。

 構成は3部に分かれていて、1部が旬の芸人さんが出演する「激突ナウ演芸」、2部が新宿末広亭からの中継、レポーターにあの高樹沙耶さんが出ていましたね。そして3部が「とび出せ笑いのニュースター」、新人同士が対戦をして、3週勝ち抜けばプロになれるというこの番組の目玉といっていいコーナーでした。審査員もなかなかの面子で、大島渚、糸井重里、山本益弘、高信太朗、花井伸夫さんという、各分野の一家言ある人たちを集めた豪華なメンバーで構成されていました。各人、それなりに辛辣なコメントをされるのですが、そのコメントが、もしも横山さんの哲学に合わなかったときには、「〇〇さんそれは違う!」と頭から否定されてしまうので、出演者以上に、審査員の人たちがみなプレッシャーを感じながらコメントされておられる様子が可笑しかったですね。審査員の皆さんも、番組開始時には、まさか自分が審査されるとは、思ってもおられなかったでしょうね。

 ちなみにこのコーナーの初代グランドチャンピオンは、「笑点」の新司会者になられた春風亭昇太さんでした。当時はまだ東海大の学生さんで、たしか落研にいらっしゃったと思います。同じくグランドチャンピオンに選ばれた竹中直人さんの、「笑いながら怒る人」という不思議な芸は、横山さんも、審査員の皆さんも絶賛されていましたね。こうして褒められた人たちはいいのですが、中には酷評されただけで終わった人もいます。82年、まだ駆け出しだった「ライト兄弟」、演じた漫才を「チンピラの立ち話や!」と評され、悄然とステージ裏へ引き上げてきた2人に、「あれはあくまでも横山さん個人の意見だから、気にすることないよ!」と声をかけたものの、言われた当人たちにとってはショッキングな出来事ではあったと思います。後に「ダウン・タウン」として大成をする、ずっと以前の話です。

 以降、何度か不祥事を重ねながらも、中江さんを初めとするスタッフの皆さんの温かさに守られて、8年弱の間、司会を務めたのですが、ついには自ら泥酔して、司会をゲストであるいくよ・くるよさんが代わる仕儀に至っては、降板もやむを得ず、後事を西川きよしさんに託すことになるのです。「他人に厳しく、自分に甘い」横山さんらしいエピソードです。

大島渚さん      糸井重里さん   山本益弘さん   花井伸夫さん     高信太郎さん

 

「笑いながら怒る人」という芸を演じる竹中直人さん

 

演じた漫才を「チンピラの立ち話や!」と評し、ダウンタウンを一喝する横山やすしさん

 

横山さんがお気に入りだった6代目アシスタントの堀江しのぶさん

 

HISTORY

第話

 翌82年10月からは、日本テレビがオフィス・トゥーワンと共に、従来のドラマ枠を変更して、「TVスクランブル」という生情報バラエティ番組を始めることになりました。毎回、旬の話題をビデオ構成で取り上げ、それについての感想をメインパーソナリティの久米宏さんと横山やすしさん、日本テレビ解説委員の福富達さんらがコメントをするという内容でした。久米さんは79年にTBSを退社してフリーになられ、以降もTBS時代からの「ザ・ベストテン」や、日本テレビの「おしゃれ」の司会をされていました。私も「料理天国」時代に面識があり、その久米さんの、たってのリクエストということで横山さんにも出演していただくことになりました。

 生放送ということで、いつもは放送直前にスタジオ入りする横山さんにも、第1回目の放送の際には3時間前には入っていただきましたが、回を重ねるごとに入り時間は、2時間前、1時間前、30分前、ぎりぎり、と変化をしていくようになります。本人にすれば、司会進行はすべて久米さんがやり、自分の役目は久米さんから振られた時にコメントをするだけだから、という思いもあったのでしょうが、スタッフにすれば「生放送だけに、もしものことがあっては?」という心配が先に立つのは当然のことだとは思います。しかも、悪いことに日曜日は本来、横山さんにとっては、仲間たちとボートレースをやる日でもあったのです。

 初めのころは本番の行われるKスタ横のロビーで、皆が仲良く日本テレビでOAされる番組を見つつ談笑などしているのですが、本番30分前の「日立ドキュメンタリー・素晴らしい世界旅行」が始まる頃になると、1人去り、2人去りと次第に人が減っていき、皆が寡黙になっていくのです。残った人も、視線こそテレビのほうに向けられてはいますが、心の中では「やすしさん、今日はいつ現れるんだろう?」と心配しているのがひしひしと伝わってくるのです。そんな思いが極限に達したところで、決まって「悪い悪い!いやーボートレースで鹿島へ行っとって、道が混んどってやな、本番に間に合わせんといかんので、路肩を走ってきたんや」などと言いながら、横山さんが現れるのです。

 人間の感情とは不思議なもので、その途端にそれまで怒りに燃えていたことを忘れて、「いや、よくぞ来てくれました」という風に変わってしまうのです。私などはもうその手口には慣れっこになっていましたが、スタッフの皆さんはいい人ばかりで、心の中では「申し訳ない」という気持ちでいっぱいでした。毎週日曜日になると、決まって朝から胃のあたりがキリキリしたのを、今でも忘れられませんね。

「TVスクランブル」のタイトル表示

 

メインパーソナリティを務めた、久米宏さんと横山やすしさん

 

HISTORY

第話

 もしかしたら、あの遅刻は横山さん流の作戦だったのかもしれません。それが証拠に、横山さんは直前になって入ることはあっても、一度として番組に遅れたことはなかったからです。役者さんがリハーサルを重ねて演技を固めていくのに対して、お笑いをやる人というのは、最初がテンションも高くて、一番面白いものなのです。かって、横山さんがアルコール飲料のCMに出演したとき、何枚も写真を撮り続けるカメラマンに向かって、「どうせ1枚しか使わないんだから、プロなら一発で決めてみろ!」と怒鳴ったことがありました。その場は「まあまあ、カメラマンにも都合ってものがあるんですから」と言って収めたのですが、横山さんの怒りはなかなか収まりませんでした。たしかに、言葉は乱暴でしたが、この言葉の裏には「ルーティーンに陥らないで、真剣に取り組めよ」という意味が込められていたのです。

 そんな横山さんが、「TVスクランブル」をいい加減に考えていたとは思えません。横山さんとしては、番組の進行は、スキルに長けた久米さんに任せて、自分はひたすら「どう、キレのあるコメントを吐けばいいのか?」ということに考えを巡らせていたのかもしれません。そういう意味では、この「TVスクランブル」という番組は、司会の名手・久米宏さんと、漫才の天才・横山やすしさんとの真剣勝負の場であったような気がします。

 番組は、キャラクターの異質な2人の取り合わせや、コーナー企画の面白さなどもあって、人気を呼ぶようになっていくのですが、次第に横山さんは外連(けれん:歌舞伎などで、見た目本位の奇抜な演出・演技)に走るようになっていきました。本番中にトイレへ行ってみたり、くしゃみをして観客に「ティッシュ持ってないか」と声をかけたり、放送禁止用語を口にして注意を受けた翌週、口に✕印の入ったマスクをつけて無言で通したり・・・それはそれで生放送らしく、面白かったのですが、私には「テレビという場で、漫才の天才が、司会の名手に後れを取った焦燥感の発露」ように思えました。「TVスクランブル」には都合2年ばかり出演させていただいたのですが、この頃から次第に、横山さんは酒の匂いを残したまま番組に出演するようになりました。

 番組は、やすしさん降板のあと、1年ほど毎回ゲストを呼ぶ形式になり、立川談志さん、清水國明さん、渡辺美智雄さん、森喜朗さんといった、タレントや政治家を迎えて繋いだのですが、以前の視聴率を超えることはなく、「天才・たけしの元気が出るテレビ」にバトンを渡すことになり、久米さんは半年間の充電後、同じ85年10月からテレビ朝日が本社移転を機に始めた「ニュースステーション」のメインキャスターを務めることになるのです。

「怒るでしかし!」

 

歌舞伎の外連

 

HISTORY

第話

 テレビ朝日は1973年に社名を変えたものの、まだ以前のNET(日本教育テレビ)の体質は残したままでした。そのため、どちらかというとバラエティ番組が弱く、視聴率も万年4位、失礼な話ではありますが「振り向けばテレビ東京」などと揶揄されていました。当時は局へ行くと、「なんでうちはバラエティでヒット番組が出ないんでしょう?」と悩みを打ち明けられた記憶があります。私はそのたびに、『今更フジテレビさんをまねても、急には追いつくことなんかできませんよ、局の体質がそれぞれに違うんだから。でも、テレビ朝日さんには、「泣きの木島」や、「怒りの小金治」と異名がつくほど名をはせた、「モーニングショ-」や「アフタヌーンショー」の伝統があるじゃないですか』と答えていたように思います。マーケティングでいうSWOT分析ってやつで、弱み(WEEKNESS)を克服するよりも、強み(STRENGHS)を伸ばした方がいいと思ったからです。タレントと同じで、キャラを立てるってことですね。

 ところが、そんな番組が85年10月にスタートをしたのです。今まで平日の23時台に放送していた「ANNニュースファイル」や「ANNスポーツニュース」をやめ、ドラマやバラエティをやっていた22時台に報道番組が新設されたのです。タイトルが「ニュースステーション」。この、前代未聞の試みをけん引したのが当時報道局次長であった小田久栄門さん。あの「木島則夫モーニングショー」を始めた人です。電通さんの協力があったとはいえ、22時台の既存番組の整理やネット局対策、聖域とされていた報道番組に制作会社を入れるなど剛腕ぶりを発揮して番組の実現にこぎつけました。メインキャスターは、TBS時代に「ぴったしカン・カン」「ザ・ベストテン」、フリーになって「TVスクランブル」で、情報のさばき方や仕切りに抜群の冴えを発揮された久米宏さん、サブキャスターに小宮悦子さんという布陣でスタートしたこの番組、19年間都合4795回も続くことになり、平均14.4%の視聴率を稼ぐ長寿番組になりました。小田さんはこの後編成局長時代の87年に「サンデープロジェクト」、89年に「朝まで生テレビ」「ザ・スクープ」などを立ち上げ、今日のテレビ朝日の礎を築きました。

 おかげで、吉本が朝日放送と共同制作をしていた「パーティ野郎ぜ」は終了の憂き目を見たわけですが、後に、これだけの構造改革を成し遂げたご本人の顔を見たくなって、食事を共にさせていただいたことがあります。「テレ朝のドン」という異名とはうらはらに、ざっくばらんで気さくな人柄に魅せられて、「嫌みの一言でもぶつけてみようか」などという気はすぐに消えてしまいました。残念なことに2014年78歳でお亡くなりになりましたが、テレビ朝日のみならず、その後の民放界に与えた影響は実に大きなものがあった人だと思いますね。

「テレ朝のドン」といわれた小田久栄門さん

 

木島則夫さんが司会を務めた「モーニングショ-」

 

桂小金治さんの「アフタヌーンショー」では、指圧の魔術師とも呼ばれた浪越徳治郎さんの指圧教室が人気コーナーでした。

 

当時のテレビ朝日 六本木社屋

 

HISTORY

第話

 話を戻します。横山さんが「テレビスクランブル」に出るようになった同じ82年、東映から主演映画のオファーがありました。しかも、83年の正月2週の公開というではありませんか。原作は1977年に別冊文芸春秋の春号に掲載された、小林信彦さんの短編小説「唐獅子株式会社」。実はこの作品、映画化の話もあったのですがなかなか決まらず、82年3月、ニッポン放送の「沢田研二の夜はいい奴」で、脚本 藤井青銅・演出 宮本幸一、黒田哲夫・沢田研二、ダーク荒牧・横山やすし、大親分・藤岡琢也・原田・世良公則というキャストで放送され、皆が関西系ということもあってカラミが抜群に面白く、急遽話が進んで、紆余曲折はあったものの、83年4月正式に東映で製作することが決まったのです。

 とうに、娯楽王の座はテレビに譲っていたとはいえ、我々世代にとっては映画はやはり別物だったのです。まして正月映画、しかも主役ともなればこんな名誉なことはありません。原作者 小林信彦さんのたっての希望とあればなおさらのことです。「根っからの漫才師」を自称する横山さんにとっても、心中期するものがあったと思います。

 東映のプロデューサーは天尾完次さん。一見柔和な表情とはうらはらに、低い声に凄みがあって、さぞかし多くの修羅場をくぐってきたであろう事を忍ばせる人でした。あまりテレビ局にはいないタイプで、すぐに「本編とは!」という言葉を振り回すコチコチの映画人かとも思ったのですが、どうやらそんな人でもないようです。キャリアを見て納得しました。天尾さんにとって、この作品は71作目になるのですが、これまでには、「十三人の刺客」「誘拐報道」「新幹線大爆破」「悲しきヒットマン」「大日本帝国」「二百三高地」など硬派ばかりではなく、「温泉みみず芸者」で池玲子さんを発掘したり、菅原文太さんと愛川欽也さんの「トラック野郎」シリーズを手掛けてこられていたからです。

 天尾さんから、「監督は日活の曽根中生さんでいこうと思う」と聞いたのは打ち合わせの行われた西荻窪の旅館だったと思います。「なんで東映の映画に日活の監督を?」とも思ったのですが、他社とは言え、どおくまん原作の「嗚呼!!花の応援団」3部作をヒットさせた腕をかっての起用だろうと納得はしました。イメージキャストは「ダーク荒牧・横山やすし、黒田・田中邦衛、原田・風間杜夫で、撮影は9月末から11月初め、横山さんには20日は割いてもらわないといけませんな」と言われました。さあ、後はシナリオを待つばかりです。ところが、これが・・・

著・小林信彦さん イラスト・峰岸達さんの「横山やすし 天才伝説」

(週刊文春 平成9年9月4日発行号より)

 

「トラック野郎」生みの親であり、東映プロデューサーの天尾完次さん

 

日活「嗚呼!!花の応援団」の監督も務められた曽根中生さん

 

「唐獅子株式会社」出演のために断髪式をした横山さん

 

原作 小林信彦さんの著書と、DVDのジャケット写真

 

東映「トラック野郎」と日活「嗚呼!!花の応援団」

 

打ち合わせが行われた西荻窪の旅館「木村館」の外観