木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 この年、ザ・ぼんちは、田原俊彦さんや松田聖子さんを抑えて、第18回ゴールデン・アロー賞最優秀新人賞を受賞しました。そして年明け、1月1日発売の「恋のぼんちシート」が初登場でオリコンの2位にランクされ、TBSの「ザベストテン」では4位で出演、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」などバリバリの歌番組にも出演するようになるのです。オリコンでは通年で28位、川中美幸さんの「二人酒」やザ・ビーナスの「キッスは目にして」、松田聖子さんの「風立ちぬ」、カネボウ化粧品CMソング矢野顕子さんの「春咲小紅」などを上回り、累計でなんと80万枚という大ブレイクを果たしたのです。

 そんなこともあって、事務所には、ぼんちファンの女の子たちが屯するようになります。中には名門・雙葉高校の子もいましたね。私と部下とアルバイトの女性だけだった事務所は急に華やかになってきました。そのうち、ファンクラブを作ろうということになり、相談を持ちかけられたのですが、日々のスケジュールに追われていた私は、それどころではなく「勝手にやれば!」と気にも留めていなかったのです。皆で話し合ったのでしょう、しっかり者の女の子が中心となって、女子高生たちをまとめ「ぼんちクラブ」というファンクラブがスタートしたのです。我々は運営に一切ノータッチで、会報の発行などもすべて彼女たちに任せていました。おかげで、私も少し外へ出る機会が増え、手の足りないような時には、ぼんちの現場フォローなども頼んだりするようになっていきました。さすがに、セーラー服で下校途中に来ている子たちには、「あまり遅くならないように」とは言っていましたが。

 第1弾がヒットしたこともあって、当然レコード会社からは、余勢を駆って「次回作を!」という話が来ます。「せっかくヒットしたのだから、まだもう少し余韻に浸っていても・・・」とは思っても、最後は、プロである彼らの「1クールで1枚新曲を出すのが常識ですよ」という言葉に押し切られてしまいました。というより、私の頭の中は「レコードはあくまでも余技、ヒットしたことは確かに嬉しいけれど、それよりも4月からの改編で、ブレイクしたわが社のタレントたちをどう定着させていけばいいのか」ということで、頭の中が一杯だったのです。

ゴールデン・アロー賞最優秀新人賞を受賞し表彰状を受け取るザ・ぼんちのふたり。

 

矢野顕子さんの「春咲小紅」

HISTORY

第話

 ぼんちのレコード第2弾は3月発売と決まり、作詞・作曲は前作と同じ近田春夫さん、編曲も同様に鈴木慶一さんでいくことになり、さっそくコンセプトを決める会議が開かれました。テーマは、前作と同じ路線でいくか、それとも裏切って、全く違う路線でいくかということだったように記憶していますが、音楽に疎い自分には判断がつかず、傍観をしていると、不意に意見を求められて、「裏切った方が面白いのでは?」と言ったように思います。

 「柳の下にドジョウは2匹いない」という言葉があります。1匹目のドジョウはありえないところで得られた幸運。2匹目のドジョウは、もう努力しなくても楽に幸運を得られると思い「夢よもう1度」と信じることです。これとは逆に「1度あることは2度ある」「2度あることは3度ある」とも言います。最近ではマーケティング業界や出版業界で「柳の下にドジョウが3匹」なる言葉もあって、先行者の成功を見て、同工異曲のものを出せばヒットする確率が高いとも言われているそうです。

 一体、どちらが正解だったのか分かりませんが、近田さんも、鈴木さんも、フォーライフのスタッフも、その場に集まった皆が、セカンド・ムーバーではなく、ファースト・ムーバーを志す、クリエイティブなマインドに溢れた人たちだったというこということだと思います。

 出来上がった曲は「ラヂオ ~NEW MUSICに耳を塞いで~」。発売される曲の90%は恋愛をテーマにしたもので、そのまた90%が失恋を歌ったものだと言われますが、この曲もまさにそうで、都会に住む女性の寂しい心情を歌ったしっとりしたもので、35年経った今でも「どうして悲しい唄ばかり 流れてくるのです ふられた女の唄ばかり はやるのでしょうか」というフレーズを覚えています。ただ、結果論でモノを言えば、そうした作り手の思いが、果たしてユーザーの期待するものであったかどうかという点では、大いに反省する余地のある作品ではあったとは思います。残念ながら、1作目に比べて話題を呼ぶような結果とはなりませんでした。

 それでも、ぼんちの人気は沸騰して、4月からは従来のレギュラー番組に加え、TBSラジオで「ヤンタンTOKYO」、文化放送で「セイ!ヤング」と2つの伝統ある人気深夜番組のパーソナリティを務めることになったのです。

2匹目のドジョウは果たして・・・?

 

2作目「ラヂオ ~New Musicに耳を塞いで~」のジャケット写真

 

HISTORY

第話

 TBSラジオの「ヤンタンTOKYO」は、MBSラジオのヒット番組「ヤンタン」の姉妹番組として始められた土曜日の深夜放送で、過去に吉田拓郎さんや小室等さんに続いて、先輩の桂三枝さんも5年間パーソナリティを務められた人気番組でした。その伝統ある番組に、ぼんちが甲斐智恵美さんと共に抜擢されたのです。

 もう一方の、文化放送の「セイヤング」も、土居まさるさんや、みのもんたさん、落合恵子さんを生んだ人気番組で、やしきたかじん、郷ひろみ、大友康平といった他曜日のパーソナリティの皆さんと共に、ぼんちは金曜日を受け持つことになりました。

 テレビでは、類似のネタ番組が増えたこともあって、さすがに前年後半期のような勢いとはいかないまでも、「THE MANZAI」や「花王名人劇場」の視聴率も変わらず堅調に推移していました。ぼんちはテレビ東京で自分たちのコンビ名を冠にした「ぼんちのそっくりショー」という番組の司会も務めるることにもなったのです。

 人気者になった彼らには、テレビやラジオばかりではなく、営業の仕事も殺到しました。当然ダブルブッキングも起こることは1度や2度では済まなかったのですが、最大のものは山梨県甲府市と、静岡県御前崎市での公演が被ってしまった時でした。スケジュールをやりくりして何とか公演時間だけは重ならないようにはしたのですが、どう考えても160キロほどの距離を車やJRで移動していたのでは間に合いません。窮余の一策としてヘリコプターのチャーターなら40分くらいで移動できると思ったのですが、A地点の甲府で1回目を済ませ、ヘリでB地点の御前崎へ移動するまではぎりぎり上手くいったのですが、御前崎から甲府には天候不順とあって時間通り戻ることはできなかったのです。天候の所為ということで、御前崎の方に連絡を入れ、B地点から駆け付けたいくよ・くるよ、サブロー・シローにつないでもらって、甲府での公演の2回目を済ませることはできたのですが、事後の処理は結構大変でしたね。

 7月21日にはなんと、かってビートルズやクイーン、ザ・タイガース、矢沢永吉、ボブ・ディランなどが著名なアーチストがライブをやり、山口百恵ちゃんの引退コンサートまで行われた、あの武道館でライブをするという話まで持ち上がりました。もちろん漫才師が武道館でライブをやるなんてことは前代未聞のことです。

約160km離れた甲府 ↔︎ 御前崎間をヘリで移動したこともありました。

 

HISTORY

第話

 「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」に続いて夢が、今までどの漫才師も成しえなかった武道館でのライブだったというわけです。ザ・ぼんちの2人だけで1万人の観客を集めるなんて、今なら及びもつかないことですが、イケイケで進んでいた我々には、当然の帰結であるように思えました。ゴールを7月21日の武道館に決め、その前段として全国6か所でライブをやるというプランを立てたのはいいのですが、何せ多忙を極める彼らのこと、消耗の度合いが更に進んだことは想像に難くありません。

 たしか、仙台でのライブに向かった時のことだったと思います。当時はまだ東北新幹線がなく、空路で仙台を目指したのですが、あいにくの天候不順ということもあって上空で旋回して、いつまでたっても着陸体勢に入らないので、スチュワーデスを呼んで「ぼんちが乗っていて、ライブの開演時間が迫っている。もし遅れたりしたら大事になるから、早く降りて!」と迫ったこともありましたね。しばらくして本当に降りてくれましたね。まあ、これは脅かしが効いたということなどではなく、管制塔からの着陸許可が下りたからだったとは思いますが、もしかしたら?と思わせるくらいの人気が当時の彼らにはありましたね。

 さて、いよいよ、目標としていた武道館の日。もしかして客が入らなかったら・・・密かに恐れていた懸念を他所に、場内は1万2千人の観客で盛り上がり、ぼんちの2人も、館内のホットなムードに乗せられて、普段にも増して熱い舞台を演じたように思います。普通なら終演後は楽屋でお疲れさんの乾杯などをして、場所を変えて打ち上げ宴会へと移るのですが、何とこの日、ぼんちは武道館での公演を打ち上げたすぐそのあと、かわいそうなことに、余韻に浸ることもなく、日本テレビのドラマロケの収録に飛び出して行ったのです。「いったい誰がスケジュールを組んだんやっ!」そうなんです。ここだけの話、この無茶なスケジュールを組んだ犯人は、何を隠そう、この私だったんですね。

 ザ・ぼんちは、この後、松竹のアニメ映画「マンザイ太閤記」で、おさむさんが主役の木下藤吉郎・豊臣秀吉を、まさとさんが前田犬千代を演じるのですが、この裏にはとんでもないエピソードが秘められていたのです。

松竹のアニメ映画「マンザイ太閤記」

 

日本武道館には1万2000人の観客で盛り上がりました(イメージ)

 

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第話

 11月28日に松竹系で封切られたこの作品は、お馴染みの秀吉の誕生から天下統一までを、アニメーションならではの新説や珍説を織り込んで創ったもので、ブームを極めるマンザイ界の人気者たちを声優として起用していました。当然、彼らの出番は声だけということになるのですが、なんとその出演料がラジオの出演ランクで支払われていたのです。

 発覚したのは、当時本社制作部の経理を担当していた課長からの「木村君、皆にギャラを払ってもお金が余り過ぎるんだけど・・・」という電話からでした。「えっ!一体何を根拠に、いくら払ったんですか?」と尋ねると、「声だけだから、ラジオの出演料でいいのかと思って」と言うではありませんか。驚いて、「これは映画作品で、いくら声の出演とはいえ、ラジオの出演料と同一視されては困る」旨を伝えて見直してもらったのですが、それでも結構な金額が残った記憶があります。それほど東西のギャラの格差は開いていたのです。当時の感覚でいうと5倍〜10倍くらい、いやそれ以上の違いがあったのではないでしょうか。放送されるエリアが関西ローカルと全国、出演料が5倍〜10倍違うとあれば、会社もタレントも、ブッキングの重きを東京キー局に置くのは必然の事です。おかげで、この年の売り上げは、テレビ・ラジオ部門が興行部門を初めて凌駕したのです。

 売り上げが上がるのは、確かにいいことですが、もちろんこれには負の側面もありました。東京の番組に出演させるために、せっかく劇場に出た人気漫才師たちを休演させなければならなかったことです。当然しかるべき人たちに代演をお願いしてはいるのですが、その人気者を目当てに劇場へ来られているお客さんにとっては、関係のないことで当然クレームとなって、怒りの矛先は劇場スタッフに向かってきます。

 当時は劇場から「東京でタレントを売っても、東京から劇場に客が来るのか!」という劇場スタッフからのクレームを、「きっと、来るようになるさ!」と受け流してはいたものの、今にして思えば、かなり乱暴なことをやっていたなと思います。ただ、言い訳をすれば、オファーを受けた時に、「いや、ちょっと劇場がありまして・・・」などと逡巡していたら、当然そのオファーは競合している他社のタレントに行ってしまうので、無理を承知で受けていたのも確かです。それほどこの戦いは熾烈だったのです。

「マンザイ太閤記」の製作発表をした時(1981年6月3日)

 

大きな熊さん、そんな名前の制作部 経理課長さんでした。

 

東西のギャラの格差

 

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第話

 フジテレビは「THE MANZAI」、「笑ってる場合ですよ」に続いて、かって「コント55号の世界は笑う」や「欽ちゃんのドンとやってみよう!ドバドバ60分!」以降低迷が続いていた土曜20時台を、強敵のTBSの「全員集合」から奪還すべく策を練っていました。

 そのためのトライアルとして、ナイター中止時の雨傘番組で「決定!土曜8時・オレたちひょうきん族」をスタートさせたのはいいのですが、相手は何せお化け番組、初回の9.5%以降も視聴率が伸びず、「やはり無理か!」と諦めかけていたところ、7月18日放送の第7回目の視聴率が13.4%を記録して、一挙に10月からのレギュラー化が決まったのです。

 スタッフはもちろん横澤さん以下お馴染みの人たち。レギュラー陣にたけし(きよし)、片岡鶴太郎、山田邦子といった太田プロのタレントさんに、洋七(洋八)、ヒップアップといった東京勢、それにさんま、紳助(竜介)、のりお(よしお)、おさむ(まさと)、サブロー・シローといった吉本勢が絡むというにぎやかなメンバーでした。

 これはこれで、めでたい事ではあるのですが、その陰で一つ悩ましい事態が出来たのです。日本テレビが同じ土曜日の19時30分から21時に、1年前から始めていた「爆笑ヒット大進撃」をリニューアルして「ダントツ笑劇隊」を始めるので、三波伸介さんと共に、ザ・ぼんちに司会を務めて欲しいというのです。お会いしたのは中島銀兵さん。「笑点」や「お笑いスター誕生」のプロデューサーを務められた方で、短髪でメタルフレームの眼鏡姿が昭和の侠客を思わせることもあって、それまでは多少敬遠をしていたのですが、いつまでも逃げているわけにはいきません。結局、横澤さんにも筋を通して、ザ・ぼんちの裏番組への出演を了解していただきました。

 後年、おさむさんから「どうしてあの時、僕たちは日本テレビに出ることに?」と聞かれ、「大人の事情」としか言えなかったのですが、淡谷のり子、あのねのねというレギュラーに、おぼん・こぼん、小柳トム、九十九一、コロッケ、コント赤信号アゴ&キンゾー、とんねるずなど「お笑いスター誕生」組を使ったこの番組はわずか10回で終わってしまい、ザ・ぼんちがその後「ひょうきん族」に復帰するまでには長い時を要しましたねぇ。

短髪でメタルフレームの眼鏡姿の中島銀兵さん

 

三波伸介さんの「びっくりしたなぁ、もう!」は流行語にもなりました。

 

淡谷のり子さんと三波伸介さん

 

HISTORY

第話

 中島銀兵さんは、当時日本テレビに多かった富山県のお生まれで、徳光和夫アナウンサーと同期。入社以来芸能局一筋、「笑点」の5代目プロデューサーの後、局からスターを発掘しようというこの人の一言から生まれた「お笑いスター誕生」のプロデューサーを務められた方で、横澤さんがフューチャーされる以前は、澤田隆治さんと共に「漫才ブームの仕掛け人」と称された人でした。

 芸人さんたちに対して「自分の番組に出なさい」というのが口癖であったため、「ひょうきん族」のコント「業界光線対決」で、ビートたけし扮するタケちゃんマンが、「日本テレビ・中島銀兵光線!」と叫んで、明石家さんま扮するブラックデビルに、この口癖の波状攻撃を浴びせて苦しめるというシーンがありましたが、そんな強面の外見とはうらはらに、とてもシャイな人で細やかな気遣いのできる一面もある人でした。

 私も、よく原宿の南国酒家や、水道橋の後楽園飯店で中華料理をご馳走になりましたね。中でも、あの長嶋茂雄さんがこよなく愛したという、後楽園飯店のふかひれラーメンの味は今でも忘れることができません。いつものように、「木村ちゃん、日本一高いラーメン食いに行こうよ!」と誘われた席でふと寂しそうに、「横澤さんばかりがもてはやされてるけど、俺だって頑張ったんだぜ」とおっしゃった時は、なんてかわいい人なんだろうと思いましたね。

 中島さんにはその後、「新婚さん!目方でドン」でさんま、いくよくるよ、「ペアで挑戦!目方でドン」で阪神巨人、斎藤ゆう子といった吉本のタレントさんたちがお世話になりました。そんな愛すべき中島さんも1996年、がん性肋膜炎で57歳の若さで亡くなりました。ちょうど海外へ出ていたこともあって、ご葬儀に参列することができなかったことが悔やまれます。

 そんな中島さんのご依頼とあって、人気のザ・ぼんちを日本テレビに出演させる決断をしたのですが、どちらかというとワンオブゼムの扱いで「ひょうきん族」に出ているよりも、三波伸介さんと共に司会をする方が、彼らにとってグレードアップにもなるだろうと思ったのです。現にザ・ぼんちは、この年「花王名人劇場」で最優秀新人賞を、そして「上方漫才大賞」では念願の大賞を受賞したのです。

後楽園飯店の「魚翅湯麺(ふかひれラーメン)」

 

「ひょうきん族」のコーナー「ひょうきん懺悔室」で神父を演じる横澤さん

 

1981年当時、たけしさんは34歳、紳助さんはまだ25歳の若さでした

 

たけしさん演じる「タケちゃんマン」と、さんまさん演じる「パーデンネン」

 

HISTORY

第話

 「カックラキン大放送」「太陽にほえろ」「噂のチャンネル」など人気番組を金曜日に集めた日本テレビも、土曜日は平均25%を巨人戦のナイター中継というドル箱番組があったこともあって、シーズンオフの間はどちらかというと、つなぎの番組でいい、もし当たればもうけものという意識があったのかもしれません。対して、フジテレビには退路を断って、「クイズダービー」「全員集合」という当時盤石のプログラムを組んでいたTBSに挑もうという気概が溢れていました。佐藤義和ディレクターの言葉を借りれば、『「全員集合」が子供にも高齢者にもわかりやすい予定調和的・オーソドックスな笑いなら、自分たちはインテリジェンスがあって、毒の効いた、子供や高齢者にはついてこれない笑いにしよう』ということです。

 結果論でものを言えば、歴史による積み重ねがあって、従来の延長で物事を考えることの多い、伝統的企業や、大企業に多いWHAT型思考の日本テレビが敗れ、歴史の浅いベンチャー企業や、大企業でも歴史の浅い事業や傍流にいる人たちが持つ、WHY型思考のフジテレビが勝利しました。

 これは、中島プロデューサーと、横澤プロデューサーのどちらが優秀かということではなく、当時の両局の置かれた状況の違いでもあったような気がします。消費されていく一方の漫才ブームが長く続かないとみて、せっかく出てきた若いエネルギーを、どう(WHY)変質させていけばいいのかを考えたフジテレビに対して、三波伸介さんや、ぼんちをそのまま起用して、従来の演芸番組らしきものを再現した日本テレビは、前例主義や過去の成功体験や、失敗体験の誤用をしたWHAT型の発想そのものだったといっていいと思います。

 「笑点」や「お笑いオンステージ」で司会者として定評があった三波さんの起用も、逆に言えば新味がなく、90分という番組のサイズも、TBSの強力な2番組を相手にするのは酷なことでした。それならいっそ、子供や若者を捨てて、ターゲットを大人に特化して、安定的に視聴率10%台を記録したNET(現ANB)の「暴れん坊将軍」の路線をいったほうが良かったのかもしれません。

 とはいえ、ビートたけしさんや島田紳助さん、島崎俊郎さん、西川のりおさんなどをソロで起用し、高田純次さんに代わった明石家さんまさん、片岡鶴太郎さん、山田邦子さんなどの布陣で挑んだ「ひょうきん族」でしたが、一方でそれまでの自らの枠組みから抜け出すことができないタレントたちは脱落していく他ないという過酷な世界でもありました。

やっぱりアピールが大事かな

 

出典:「Why型思考」が仕事を変える 著者・細谷功(PHP研究所より)

 

HISTORY

第話

 「漫才コンビの枠を外し、シャッフルすることで笑いの化学反応を作ろう」をモットーにスタートした「ひょうきん族」ですが、初回視聴率こそ王者「全員集合」にトリプルスコアの差をつけられはしたものの、徐々に追い上げを見せ、ついに1982年3月6日、わずか0.3%の僅差ながらも、王者を追い抜くことになったのです。

 同じころ、さすがの漫才ブームも少し息切れを見せるようになっていました。もちろん、企画に趣向を凝らした「花王名人劇場」は変わらずに健在でしたし、テレビ朝日では横山やすしさん司会の「ザ・テレビ演芸」など漫才を披露する番組もありましたが、一時期の爆発的なムードは沈静化の兆しを見せ始めてはいました。それに同調するかのように「笑ってる場合ですよ!」もマンネリ化し、客席の大半をローティーンの少女たちが占め、彼女たちが出演者の些細なリアクションに笑い転げるようになっていました。そんな客席を見て横澤さんたちは「そろそろ潮時かな?」と次の企画を考えることになるのです。

 それが、夜の密室芸人と言われていたタモリさんをメインに起用した「笑っていいとも!」。同じくスタジオアルタからの生中継、ただし今度は観客席に「18歳以上」という条件が付けられていました。レギュラー陣も今までとは大きく異なり、田中康夫・古舘伊知郎・中村泰士・大屋政子・渡辺和博・山本普也・和田勉・金田一春彦など、今までとは様変わりして文化人と称される方々が多く起用されました。3か月しか持たないと思われた番組は1カ月で10%を超え、以降2014年までの32年、都合8054回で平均視聴率11.5%のお化け番組になろうとは誰も想像しなかったと思います。この時の横澤さんの慧眼たるや、恐るべしと言うほかありません。

 漫才ブームで最も疲弊したのは、露出も多く一番前でブームの風を受けていたB&Bとザぼんちの2組でした。もともと、ネタが3,4本しかないところに、需要が集中して何千回と供給するのですから真っ先に飽きられても当然です。すでに他の事務所にいたB&Bはともかく、ザ・ぼんちの2人には申し訳のないことをしました。それいけ!やれいけ!とばかり攻め続け、武道館以降を見据えていなかったことです。ドラマにもラジオにも挑戦しましたが、それが実を結ぶこともありませんでした。時には、あえて番組に出さないという「引きのマネジメント」も必要なんだということを、彼らを通じて教えられた気がします。

横澤彪さん

 

32年間、8054回にわたって生中継をしたスタジオアルタ外観

 

HISTORY

第話

 こうしてフジテレビは、民放4位に低落していた座から脱して、1982年から1993年まで視聴率3冠王を誇るまでになっていくのですが、上昇のきっかけとなったのは1980年「今フジテレビは創立以来最大の危機に直面している」として、父・信隆会長から改革の任を託された鹿内春雄さんの存在だと思います。当時まだ34歳。専務に系列のテレビ新広島に出ていた村上七郎さんを復帰させ、編成局長に42歳の日枝久さんを抜擢。合わせて、プロダクション化していた制作体制を、出向組ばかりではなく、高卒のプロパー組をも社員化して、10年ぶりに300人規模の大制作局を復活させたのです。プロパー組には、ひょうきんディレクターズの5人(佐藤義和・三宅恵介・永峰明・山縣慎司・荻野繫)の皆さんを含め、他局が採用を控えていた30歳前後の脂の乗り切った社員が多かったのも幸いしました。また、組合活動が原因で産経新聞出版局に出向を余儀なくされていた横澤さんのような有為な人材も、7年ぶりの復帰を果たすことができました。当然、この人たちのモチベーションは上がります。こうして、フジテレビは自由闊達な組織へと変貌を遂げ、1981年秋には「楽しくなければテレビじゃない」とのキャッチコピーを掲げ、前へと進んでいったのです。

 最大のウィークポイントだった昼帯は「笑ってる場合ですよ!」「笑っていいとも!」でクリア、「コント55号の世界は笑う」「欽ちゃんのドンとやってみよう」以来、TBSの後塵を拝していた土曜8時枠は「ひょうきん族」で勝利。次いで悩みの種だった夜帯の「スター千一夜」もスポンサーの旭化成を説得して、火曜9時からの1時間枠へ移行して「なるほどザワールド」に。3か月後には早くも20%を達成して、通算15年間・731回の平均視聴率21.3%というお化け番組に育てあげました。プロデューサーは、高卒でフジテレビに勤務しながら夜間大学を卒業した苦労人の王東順さん。また、ドラマではTBSの「思い出づくり」とデッドヒートを演じて最後に勝利を果たした、「北の国から」の白川文造さんや中村敏夫さん。他にも「夜のヒットスタジオ」の疋田拓さん、「オールナイトフジ」や「夕焼けニャンニャン」の石田弘さんなど、多くの優れた人材が活躍するようになるのです。

鹿内春雄さん          ひょうきんディレクターズ        王東順さん

 

「スター千一夜」の後を継いでスタートした「なるほど!ザ・ワールド」

 

1981年10月にスタートした「北の国から」は初回視聴率16.4%、最終回は21.0%を獲得しました。